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「誰か」、来る——土谷創太「穿孔性の動物」をめぐって
土谷創太「穿孔性の動物」を読んだ。『道草だけどレボリューション』に収録されている。少し、色々書いてみる。
この小説は、読点(、)だけで書かれ得るのではないか。いや実際には文の切れ目で句点(。)が使われている。しかしわたしには全てが一つの文のように読めた。切れ目なく読点だけで繋がった長い一文。それはこの小説が「現在形」で書かれていることも関係しているかもしれない。小説における現在形は不安定だ。居心地が悪い。こうした批評めいた文やエッセイは現在形に違和感がないのに、小説となると途端に違和感が生じるのはなぜか。これは単なるテクニックの話ではないように思える。
普段わたしたちが迂闊に「思う」としていることは、たいていは後から改竄したり隠蔽して整えられた後の「思う」だ。「思う」なんてものは、もっとその手前で何かを待ち受けるようにぼんやり駆動しているもので、ではそのときの駆動を言葉にしようとするとき、それは「過去形」で書かれるべきなのか。いや、なんとなく勘がいいヤツはそこら辺に勘付いていて「現在形」で書いてみたり、その両方をミックスして書いてみたりする。これは、どちらが良いとか、土屋は勘が良いとか、そういう話ではない。「現在形」で書くか「過去形」で書くか「進行形」で書くか「完了系」で書くかといった小手先のテクニック談義の奥に、実はそうした何かが潜んでいるような気がする。
もう少し書くと、名詞をごろごろと並べる書き方。これも「現在形」に近い。これらのすべては「速度」の話に通ずる。
読んですぐに、「語り手」がキョロキョロとし始めやがて立ち上がり透明になったり不透明になったりして外に出てウロウロし出すことに気づく。そしてここまで読んでいわゆる「語り手」とは違うところでこの小説は書かれたのだと飲み込む。「語り手」はいるにはいるのだが、巧妙にその視線の裏に隠れている。人が見るから視線が生まれるのだが、見ているうちに人の方がどこかに雲隠れしてうっかり出遅れた視線だけが残る。やがて残った視線は「まあ……いいか」と開き直って勝手気ままに散歩をしだす。視線が運動しだす。駆動し始めた運動によって文章は書き継がれていく。どちらも大変有名な、こうして挙げるのが恥ずかしいほどの、ウルフの『灯台へ』の空き家の描写やジョイスの『ダブリン市民』の「死者たち」のラストの雪の降る描写を思い出す。
家は取り残された。見捨てられてしまった。生命が消え去った以上、もはやそれはひからびた塩粒のこびりつく、砂丘の中の一枚の貝殻も同然だった。長々しい夜がそこに住みついたようだった。いろいろとかじっては弄ぶすきま風や、手探するような湿った海風が、結局勝利をおさめたのだ。シチュー鍋はさびつき、マットはぼろぼろになった。ひき蛙が様子を見に入り込んでくる。空しく、また意味もなく、ショールはゆらゆら揺れ続けるばかり、アザミが食料庫のタイルのすき間から顔を出す。
二、三度、窓ガラスを軽く打つ音が聞こえたので、彼は窓の方を向いた。また雪が降りはじめていた。彼は眠りかけながら、銀と黒の雪片が斜めに降り落ちて、街灯の光に浮き上がるのをながめた。西の旅に出かけるときがきた。そう、新聞の言うとおり、雪はアイルランド全土に降っている。雪は暗い中部平原のいたるところに降り、木々のない丘に降り、アレンの沼地にひっそりと降り、さらに西方の、暗く立ち騒ぐシャノンの河波にひっそりと降っている。雪は、また、マイケル・フュアリーが埋もれている丘の上の淋しい教会墓地のいたるところに降っている。雪はゆがんだ十字架や墓石の上に、小さな門の穂先の上に、不毛ないばらの上に、深々と降り積もっている。彼の魂は雪の降る音を耳にしながら、しだいに近くを失っていった。雪が、かすかな音を立てて宇宙に降り、最後の時の到来のように、かすかな音を立てて、すべての生者たちと死者たちの上に降りそそぐのを耳にしながら。
別に思い出さなくていい。ひけらかさなくていい。
そうやって視線がのびのびと散歩をして犬の中に入り込んだり祭の屋台に上ったり小さな個人教習所の古びた校舎になったりするその調子はまさに遊んでいる。童心にかえって遊んでいるみたいだ、いや子どもそのものか、いい過ぎか。しかしそこには、底が明るい、根が明るい、幸福な、大ゲサにいうと「生を肯定している」ような気配さえある。
それは、すごいことだ。
そして遊べば遊ぶほど羽を伸ばせば伸ばすほど、かえってなぜか退屈な感じもする。手の内が見透くような気もする。書き継いでいくうちに何かがやってくるのを待っているようなその構えが、滲んで匂うからかもしれない。不愉快なわけではない。つまらないわけでもない。おもしろい。退屈だからつまらない、とは実はつながらない。自分にのめり込むような細かな描写がそのヒダでわたしをくすぐって、楽しい。と、同時にふと地面を見て考えるようなところがある。
こうした話は、小説の「速度」と関係が大いにある気がする。「速度」のことは山下澄人が度々いっていた。普通生きている人間はおそろしい速度で煌めく。それが書く段になると置いていかれる……これらの話に結論は出ていない。わたしはここのところずっと「速度」について考え続けている。結論は出ていない。ほんとうはこんなふうにわからないままに書くべきではないのかもしれない。なんせわたしはまだ捉えきれていない。まだわからない……誰に気遣ってるの?
例えば、わたしは、カフカや山下澄人やルシア・ベルリンや小島信夫の小説は「速度」が速いように感じる……。
この「穿孔性の動物」の文はどうか。速いのか、スローモーションすぎて逆に速く感じるのか、そして、わたしエトウの小説の文は果たしてどうか。
土手道は右へ曲がりながら、さっきまで横を歩いていた百メートルの川幅の川が、別の三百メートルの川幅の川との合流地点に差し掛かっていて、川同士が水門の前で意外にも静かにぶつかり混じり合ってそのまま二つを足した川幅になって海へまっすぐ流れている。水門の横を過ぎると、薮だった右手は松林になっていて、正面からはここへ来るまでもずっとしていた磯の臭いがより強く顔に向かってくる。
小説の終盤、やがて浜へ行き、そこで砂浜に穴を掘り穴に入りあたかも誰かを待っているかのようなかたちになり、ちょうどそこに「誰か」がやってくる、穴の近くに「ポリタンク」を引き摺ってやってくる、その音が穴の中に隠れた「誰か」にきこえる、ここにきて「運動」は「視線」に、「視線」は「語り手」に還り、はじめてはっきりと「語り手」は少し恥ずかしげに姿を現す。
ぎこちなく「誰か」と「誰か」は話し出す。穴に隠れた「誰か」と穴にやってきた「誰か」。ここまで読んでわたしはホッとする。何かがくっきりし始めたからだ。しかしその安堵はつまらないものかもしれない。同時に、どうしてここで「誰か」がポリタンクを引き摺って登場したのだろうと思う。別に誰も来ず、たった一人で夜明けまで穴の中で待ち続けてもよかったのではないか。いや、そうじゃないのか。
やはり、ここは、「やってくる」なのか。
夜中浜へやってきて穴を掘り今は穴の中にいる「誰か」と、ポリタンクを引き摺って穴の近くにやってきた普段船の上で暮らしているという「誰か」は、しかしどうも同じ人物のようにも思える。
黄色いのにしょっちゅう殴られましたよ。殴り返したので遺恨はないですけど。
それなら思い出したように言うなよ。
赤いのが双子と付き合ってたよ。
マジか!
今は警察官になって、交番勤務じゃなくちょっと大きい建物で働いていて、つまり出世もしたらしい。
え〜!
中学、高校の間に二人は四回別れたりくっついたりしてたけれど、最近は籍を入れたそうで、子供もいる。
マジかよ!
子供は歩けるようになったばかりで、商店街の道をちょこちょこ歩いて、すぐにしゃがんで、また歩いて、すぐにしゃがんで、コンクリのひび割れの苔をむしってみたり、とやってる。
すげ〜!
どうも他人に見えない「誰か」と「誰か」は、一体どういうことなのだろう。わたしだけがそう感じたのか。だがここから、ここから何かを感じて、新しく書き継いでいける気がする。
その後6章になると、浜にやってきて穴を掘り穴の中に入っていた「誰か」はあっさり穴から出ているのだが、書かれないその脱出はほんとうは壮絶だったはずだ。そして穴から出た「誰か」はあっという間に、ポリタンクの「誰か」を置き去りにして、松林の前の舗装路に停車した友人の車元へと急ぐが、そのときポリタンクを引き摺りこれから自分の家船の家に帰っていくもう一人の「誰か」は一体どんな顔をしていたのだろうか。嬉しいのか哀しいのか眠いのか無表情か、いや笑っていたか、瞬きする間に、さっと目の前から消えたのか。
おれは、何年も小説を書いていて、新人賞に応募して落ちてオシマイとしてきました
— 江藤健太郎 (@EtoKentaro) October 19, 2024
でも最近、「賞をとってない本は出してはならぬ」という「刷り込み」が消え、だから自分で本を作って出すことにしました
12月中に、多分出ます
タイトルは『すべてのことばが起こりますように』#小説 #自分で出す