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草叢

母方の祖父は、子どもの頃に両親を亡くした。弟たちを引き取るという親戚たちの進言を退け、自らが働いて養った。結婚してゴム工場で働いたが、空襲がはじまり故郷に帰った。

結核で妻と娘二人を失った。戦局が悪化してとうとう徴用され、広島に赴いたときに原爆が投下され、祖父は被爆した。どうやって帰ってきたのか、からだには穴があき、蛆虫が湧いていた。

看護師になった私の叔母は、蛆虫のおかげで傷がふさがれたのだと言った。祖父は被爆者手帳を持っていなかった。差別を避けるために申請しなかったのではないだろうか。

祖父は小さな自転車屋を営んだ。私の母が結婚する時に父方の祖父母があいさつに訪れ、精一杯のもてなしとして寿司を供した。その時の皿が客人に寿司をふるまうにふさわしい皿ではなかったと、後々まで母は義母から言われ続けた。

弟か妹が生まれる時、私は母方の実家に預けられたらしい。私は祖父になつき、祖父は私を可愛がった。母が出産を終えて祖父は列車に乗り、幼い私を母に返した。私は祖父にしがみついて泣き、祖父もこの子と離れられないと訴えた。

祖父は高熱で倒れ、肺炎で死んだ。風邪だと思って受診させなかった後妻である祖母を親戚が責め、それを苦にして認知症になったのだと母は言った。祖母は入院し、徘徊できないように手足を縛られ、床ずれで死んだ。

今から20年以上前、私は車を運転していた。長野県塩尻市だったはずである。夏の蒸し暑い日だった。踏切が降りて停車する。そこには私の背丈よりも高く育った帰化植物の鬱蒼とした草叢があった。踏切の内側だったと思う。

容赦ない太陽がアスファルトと線路をき、草叢はデイヴィッド・リンチ的に不穏なる暴力性を放っていた。カンカンと踏切の高い警報音が鳴り響く。

その時、草叢と祖父母がじかに結びついたのだった。眠れる記憶の山折り線と谷折り線を畳み込んで過去と現在を重ねるように。

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