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くだらねえとつぶやいて

なぜこんなことを書くかというと、立て続けに選挙があり、メディアに政治家が登場しているからだ。落ち着いて質問に答えている分にはいいが、討論や街宣となると声を張り、正当性を訴える。そんな時に口にする言葉が伝家の宝刀「覚悟」である。

私はこの言葉が苦手なのだ。しかし世間では、刺さる言葉として多用され、利用される。図書館のサイトで書名に「覚悟」を含む本を検索すると、ぞろぞろ出てくる。優れた編集者ほど、タイトルに入れれば売れることを知っているのである。

元来、仏教語として「迷いを去り、道理をさとること」の意味で大陸から伝来したのだが、現在に至るまでに変質した。「余命いくばくもないと覚悟する」といった「諦め」とは別に、背水かつ不退転の「決意」「決心」として使われることが多い。これは求心力があるようで、人々の多くは覚悟ある人を高く評価する。

選挙活動で高田純次のような受け答えをすれば、やはり非難を受けるのだろう。見てみたい気もする。

大陸の先輩、中国では「自覚」という意味で使われていて「決心」ではない。やはり、日本独自のガラパゴス化ではないだろうか。

私が「覚悟」という言葉を直接的に聞いたほとんどは、経営者と後継者である。資金繰りだマネジメントだと神経を擦り減らし、時に本意ではない立場にあって、彼らは「覚悟」を口にした。自らに覚悟を課す者は、陰に陽に、必ず他者にも覚悟を求める。

なぜ、仏教語から変質を遂げたのか。薄っぺらい私の推察に過ぎないが、中世において仏教と武家が結びついた結果ではないだろうか。神仏習合も影響したかもしれない。その後も仏教は政治利用され、戦争に協力し、国威発揚に寄与した。「覚悟」には切迫した血の臭いを底流に感じるのである。

積極的に覚悟から逃げてきた私から見ると、この列島に暮らすひとりひとりにとって、覚悟は生きていく推進力になっている。同時に、現状を肯定する言い訳でもある。自然の力ではなく、人為的な力として。

ある時、インド人と一緒に山手線に乗った。彼は乗客を見まわして言った。「No Smile」。のっぺりとした喜怒哀楽の抑制は、覚悟と地下茎でつながっている。

私にとって覚悟とは、不純物のない結晶である。覚悟なき者は去れと言われれば、ぜひとも去りたい。この美しくも鋭利な固体を、言葉もろとも液状化して生きていけないものだろうか。ばかばかしいおおらかさを伴って。


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