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聲のあとさき

15年ほど前、会社を辞めることになり、同僚が寄せ書きノートを作ってくれた。女性がほとんどの会社で、女性ならではの心遣いだった。辞める人に対してわざわざ悪口を書き送る人はいない。絞りだしてでも良いところをみんなが書いてくれるのであり、自己肯定感の低い私にとってはこそばゆい限りだった。

「冷静」「落ち着きがある」という言葉が目立つ。社会人としての私は仮の姿という自己認識があり、怒ったりまくしたてたりするに値することなどないのだから、まあそう言われるのもわかる。加えて、女性ばかりの職場で男性が生きていくスキルでもある。

そんな評価より、「声がいい」と書いてくれたことに私はひそかな喜びを覚えた。そう、声だけは昔から褒められるのだった。

子どもだった頃、身体的な成長が人より遅れていた私は、声変わりもせず、劣等感にさいなまれた。今もっていつ声変わりしたのかわからない。気付けば人よりも声が低いと言われるようになった。

女性にとって、男性の声がいいとはどのような意味があるのだろう。「腕に血管が浮いている男性が好き」みたいなことだろうか。男性である私は、「あの女性の声が好きだなあ」という感覚はあまりない。その女性が好きだから、印象が良いから、声も好き。そういう順番なのである。さらに言えば、話し方、喋り方、その内容が好きだから、「声が好き」になる。

男性にも好きな声がある。FMラジオ『ジェットストリーム』でナレーションを担当した城達也さん。実に素晴らしかった。それは、深夜という時間帯、テキスト、選曲、すべてが噛み合った稀有な世界観にもよるのだが、城達也さんの人柄というものが感じられた。氏は、ラジオでのイメージを壊さないように極力テレビなどの露出を抑えたと聞く。プロである。

NHKで日本文学の朗読をする寺田農さんの声も素晴らしかった。朗読の仕事は十分な読解力、そして何をどう伝えるかという意思が鍵を握るはずで、氏は私にとって秀でた存在だった。

声は品格を表す。先天的な声帯や口腔の構造、肺活量だけでは測れない要素が多分にある。だからといって私に品格があるということではないのだが、少なくとも私の声がいいと言ってくれた人は、私のことを嫌いではなかったのではないだろうか。人として嫌いだが声は好き、というのは難しい。

だからこそ、声については意識的であろうと思っている。自らの品格を貶めれば、声に表れる。「お前バカじゃないの」と私が投げ捨てた声を、誰が好きというだろう。

リンカーン大統領は、「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」(Every man over forty is responsible for his face)と言ったらしい。声も同じではないだろうか。もちろん、病気や怪我、加齢よって声に変質をきたすことはある。でも、ほとんどの場合、声は人を表す。

誰かが褒めてくれる数少ない取り柄を生かすべく、朗読の技術を磨いて誰かの役に立ちたいと頭のどこかで思っているのだが、行動に表れたことはない。


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