空から落ちてくる理由
「友だちになってください」と初対面の女性を訪ねたことがある。私は元来そんなことをできる人間ではないし、後にも先にもひとりだけである。
彼女はドイツ人だった。ある機関誌に彼女が投稿したコラム、「就職活動する学生がみんな同じスーツを着ているのはちゃんちゃらおかしい」といった記事に規格外の何かを感じ、会いに行って本当に友だちになった。
当時30歳前後で、背が高く魅力的な女性だった。日本語はペラペラ以上、漢字も何不自由なく読み書きできる。英語もネイティブ並み、ギターを弾き、カメラが趣味。会うと必ずカードゲームになり、めっぽう強い。麻雀や将棋をやらせても間違いなく強い。底知れぬ能力と広い視野、屈託のなさ、独自の人生観を有していた。
私は彼女の生き方から多くを学んだ。ある時、バンジージャンプの話になったのだが、彼女は興味を示さず、「スリルをまったく感じない。私はスカイダイビングを何十回もやっている」と言う。理由をよくよく聞くと、彼女に寄生する生物の仕業らしい。
その生物の名は、トキソプラズマ。肉眼では見えない原虫で、ヒトを含む動物に感染する。しかし、有性生殖による繁殖はネコへの感染でのみ可能であり、ネズミに感染したトキソプラズマは宿主であるネズミを操り、ネコへの警戒心を弱めて捕食されやすくする。
ヒトに感染したトキソプラズマも同様で、ヒトを危険な方向へ誘導する。宿主が死ねば、体外に逃れ、ネコに感染し、子孫を残すことができるからだ。よって、トキソプラズマに感染したヒトは操られて特異な行動をとる。交通事故を起こしやすく、自殺率が高い。
一方で、感染したヒトは性的な魅力が高いという。交配による感染拡大を促しているのである。起業率も高い。危険への警戒心を鈍らせているのである。感染率が高い国は、ブラジル、アルゼンチン、フランス、スペイン、ドイツなどサッカー強豪国ばかりで、攻撃的プレースタイルとの関係が示唆されている。
感染したオオカミは、群れのリーダーになる確率、一匹オオカミになる確率が圧倒的に高いこともわかっている。
ドイツ人の彼女は、なぜ日本に来たのだろう。トキソプラズマが彼女を語学オタクにして感染率の低い東アジアで勢力を伸ばそうとしているのではないか。私が会話している相手は、彼女なのか、トキソプラズマなのか。
アイザック・ニュートンが言ったとおり、私たちは海岸で小さな石や貝殻を見つけただけで、大きな海を前にして何も知らないに等しい。自分を動かしているのは自分とは限らず、自分とは何なのかと自問するが、自問する自分も自分ではないのかもしれない。
それでも私は、トキソプラズマに感染したいと思うのだった。感染したヒトは精神疾患などの危険を伴う一方で、私にはない何かを持っている魅力的なヒトに映るのである(私が感染していないという前提で)。
そう思うということはトキソプラズマの思う壺であり、彼らは虎視眈々と私を狙っている。そのうち「ネコを飼いたい」と耳元で、いや脳内から囁くのだろう。