【IB・MYP・評価】学校における”評価”を手作り玉ねぎ麹に対する辛口評価エピソードと無理やりこじつけてみる。(現在の実践編パート2)
今現在IB校に勤務している自分が、実践の中で”評価”という言葉をどのように使用しているのかについて、前回の記事に書きました。
今日はもう一つの実践例を紹介します。
理科Unitの概要(別学年)
別の学年で今現在教えている理科のUnit。
UnitのStatement of Inquiryは
「自然環境を構成するものは、相互作用を繰り返し、絶えず変化を受け入れる」としています。こちらの学年も前回同様、生物の内容構成です。
主に動物を題材として取り扱っています。
これまで、系統樹上で近縁(形態や発生過程の類似性の高い)な生物の特徴について4〜6種、リサーチするよう指示しました。(毎週1種ずつレポートにして、授業中に互いにフィードバックを与えます。詳しくはまた別の投稿で。。。)アカマンボウ目、食肉目クマ科、ウサギ目など取り扱うトピックは個人によって様々です。
リサーチを踏まえて、以下のような総括課題を出しました。
学習過程で得た情報を構造化してポスターに整理しなさい。
その上で、「生物はなぜ”多様”になっていくのか。」について論証し、ポスターに示しなさい。さらに、”多様さ”の課題について、自分の考えをポス
ターに示しなさい。
そのポスターを製作するにあたって、課題までの締め切りが中盤を過ぎた辺りであるルーブリックを作成しました。
ルーブリックは、評価規準とその細かい具体項目が書かれた表であり、
その評価の軸を目安として生徒は課題を製作したり、
他者の製作物を評価したりします。
そのルーブリックは、MYPカリキュラム 「理科」指導の手引きをもとに
生徒と共に理解可能な言語に落とし込んだものを使用しました。
どのようなポスターが”良い”ポスターなのかが明確でなければ、
何でもありになってしまいます。そして生徒は迷うのです。
「マラソン大会」の評価規準を知らない人が、
必死になって”走る”の共通項である短距離走の練習をしまくって
本番に臨んでしまうようなものです。
前回の記事の実践も踏まえ、今現在の自分が”評価”というものを
どのように捉えているのかについて書きます。
評価は数字をつけることではない。
評価は個人の解釈を他者の解釈によって広げる効果がある。
評価は過程においてなされる。
評価の規準は、学習者にも周知される。
評価は学習者の学習の推進力となり得る。
かつての自分は「評価=評定をつける」と理解していたものですから、
随分と認識が変わったものだなあと記事を書きながら自認します。
もちろん、現場の教師はとりわけ中学校(高校も?)であれば、
業務として評定をつけるという行為が非常に重要な意味を持つ、
ということを身をもって十分に理解しています。
なぜならば、進学する際に必要な通行許可証のような意味を
評定は内包しているからです。
あまりにもその意味が社会的に強烈なインパクトを持つために、
実質的に「評価=評定をつける」となってしまうのだろうと
過去の自分を見るとそう思います。
しかし、果たして学習者にとって通行証を得ることは
何の意味を持つのでしょうか?
その通行証は、進学さえしてしまった暁には
何の意味も持たないただの数字と化すわけです。
数字をつけることに非常に長い時間と労力をかけることは
結果として学習を妨げることになると私は考えています。
自分の作った塩麹。
5段階で2です。その数字は今後ずっとこのままです。
・・・こんなことは生活の中であり得ないことですが、
そのあり得ないことを学校生活ではあたかも当たり前のように
なされていることに違和感を感じざるを得ません。
ある時同僚の先生との会話で
「私は美術2だったんで・・・」なんて言葉を聞いたことがあります。
評定はその時に押された烙印。ずっと消えることのない傷跡。
大人になってもその評価は自分に刻まれていると
多くの今の認識では勘違いしてしまうのかもしれません。