編集の力を信じてる
編集は、偏集だ。偏ってこそ価値がある。
私の尊敬する編集者の言葉で、うちの編集部で伝説的に語り継がれてる言葉のひとつです。
この「偏る力」こそが、私が信じている編集の力の根幹です。
選ばれない失望
私の編集の価値についての原体験は、美大に通っていた頃…大学の芸祭でした。いわゆる学祭なんだけど、そりゃもう皆の力の入れようが他の大学とは違って、誰もが何らかの出し物に参加してるんじゃないか?という熱気で。
私の出身である油絵学科の子たちは大概、絵を展示して、一般の方やギャラリストにお披露目します。
それはとても特別なことで、先生でも、友達でも、親でもなくって、自分となんら繋がりのない人に、ほぼ人生で初めて自分の分身とも呼べる絵を見てもらう機会なわけです。
「知らない人から嬉しい反応を聞けるかもしれない。」「ギャラリストから声がかかるかもしれない。」そんな密やかな期待と共に過ぎていく3日間。
でも、現実は残酷で。感想ノートには友達からのコメントばかり。それはそれで嬉しいことなんだけど、期待していたような世界の広がりなんて無くって。実力がなかったと言われればそれまでだけど、それ以上に私の中に、ある感情が浮かび上がりました。
「これ、描いたって無駄なんじゃないかな」
何百人もの学生が展示する中、ただ作品を展示する行為はまるで砂山の中から、よく見ると七色に光る砂粒を見つけてくださいと言っているようで。
どんなに良いものを作っても、誰かに見つけてもらえる日なんて来ないような気さえしてしまう。
当時私が感じたことは偽りようもない真実で、ちゃんと伝えるべき人に、伝わる形で伝えられる、そういう能力を身に付けたい。漠然と思いました。
砂山からすくい上げる
そんな私が見つけたのが編集の持つ、「偏る力」でした。
数多くの中に埋もれたり、目立つ&人気のものが良しとされる世界なら一生報われない作品も、どこかにいるたった1人にとっては最高かもしれない。
作品とたった1人の誰かを結びつけるには、砂山の中からその誰かにピッタリきそうな砂粒をすくい上げて厳選してあげないといけないわけです。
そのためには「みんなは見向きもしてないし、超偏ってるけど…こういうのって実はいいよね」って言い切れちゃったりする力って必要で。しかも、今時はその誰かが自身でネット検索してたどり着ける顕在化してるニーズだと全然意味がないわけです。
今まで本人も気づいていなかった良さや価値観で、その人にピッタリ…いや、それ以上に新しい世界がひらけるモノをお伝えする。それこそが編集の力。
それは、世界の全く違うところで息づいてる文脈Aと文脈Bを紐づけてあげるという行為で、人の気持ちに寄り添い尽くすことと、膨大な情報を知った上で情報を極限まで削り、確信的に偏らせることでしか出来ない、大変な作業です。
でも、世界のどこかに昔の私みたいな失望感を持っている人がいたら、一緒に頑張ろうって言ってあげたい。「編集」には、そういう力があるから。
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