②社会主義とバレエ (社会主義プロパガンダ化計画)
1.社会主義リアリズムとバレエ
では、どのようにバレエがプロパガンダ化されていったのか?ということですが、実は当時のソヴィエトには芸術作品をプロパガンダ化するための公式マニュアルのようなものがありました。
それは「社会主義リアリズム」と呼ばれるもので、当時ソヴィエトが定めていた芸術全般における政府「公式」の表現方針です。
つまり、社会主義の目指す理想郷・あるべき姿を描きなさい、ただし、(それが空想だとバレないように)その光景がソヴィエトに存在していると伝わるように具体的に描きなさい、ということです。
要は芸術のプロパガンダ利用を前提とした方針だったのですね。
※「理想郷」のイメージとしては、例えば「全員が兄弟のように協力し合って労働に励み、実り豊かな大地でその成果を祝福しあう」…というような情景が一例として挙げられていたようです。
さて、ではバレエにどうやってこの社会主義リアリズムを組み入れようか、という検討が始まるのですが… ここで今まで出てきたバレエの主な作品を思い浮かべてみてください。
どれも空想の極み、リアリティはほぼ皆無ですね。
さらに色々な作品でお姫様や王子様が頻繁に出てくるあたり、とてもブルジョワ的と言えます。
またバレエを一度でも見たことがある方なら分かると思いますが、バレエは元来とても形式的・抽象的な芸術です。動作の1つ1つにルールがありますし、言葉は使わないので、登場人物の感情からそのシーンの情景までのほとんどを踊りで表現していました。
さて、何が言いたいかというと…
従来のバレエのままでは、「社会主義」や「現実性」といった要素との相性がとても悪かったのです。
(逆に言えば、そうした「非現実的」なバレエだからこそ、革命後の労働者にとっての現実逃避の場として、心を掴むことに成功したのですが…)
しかし今は、社会主義リアリズムを体現しないとプロパガンダとしての役割が果たせなくなってしまいます。これは大問題です。
ソヴィエト政府にとってバレエの利用価値がなくなれば、バレエという文化自体が切り捨てられてしまうかもしれません。
一方、劇場の維持費や衣装代など様々なところでお金がかかるバレエが、当時のソヴィエトにおいて政府の後ろ盾なしに存続することは不可能でした。
こうした背景から、社会主義リアリズムに沿ったバレエを創り出すという、「バレエ・プロパガンダ化計画」が始まります。
この試みは1930年代前後~1950年代のスターリン時代終焉まで続きましたが、結果としてソヴィエトバレエ界に長い暗黒時代をもたらしました。
2.ソヴィエトバレエの暗黒時代
プロパガンダ化計画にあたり、物語を題材にした長編タイプのバレエを基本として、様々な(暗黙の)ルールが厳しく加えられていきました。
ざっと、以下のような感じです。
とことんリアリティを重視していますね。
これにより、本来、バレエの最大の魅力であるダンスパートは激減しました。日常生活で踊りだす場面なんて、限られていますよね。
空いた尺には、マイム(セリフ代わりの身振り手振りの動作)や、民族舞踊(フォークダンス)が多用されました。(フォークダンスは「民族主義の掲揚」という名目上、ある程度OKだったようです)
また音楽についても「社会主義リアリスト的」なのは「壮大で重厚な音色」であるということで、文化省の人間たちによって修正が入れられたといいます。
もはや芸術の自由などなく、その芸術的精神を否定されたアーティストたちはさぞかしフラストレーションが溜まっていたと思います。
しかし結果として、こうした政治的要求が芸術家たちの反感を買ったことで、計画に対して芸術家たちは消極的な態度でのぞむようになり、このバレエ・プロパガンダ化計画を失敗に追い込む大きな要因になったと考えられます。
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この時代に制作されたバレエの一つに、有名な「ロミオとジュリエット」があります。(1938年に初演)
この作品を手掛けたプロコフィエフは、当初物語をハッピーエンドで締めくくる台本を書いていたそうです。というのも、「死者は踊らない」からでした。
結果的に古典を勝手に改変することの方がNGと判断されたため、原作通りの悲劇になったようですが、このエピソードからも、当時の保守的な風潮が感じ取れるかと思います。
作品の方向性は「社会主義リアリズム」を筆頭とする政治的思想によって支配されており、どこか抵触している部分があったらどうしよう…と、ダンサーたちが舞台に上がることを恐れる場面もあったといいます。
この暗黒時代はソヴィエトバレエ界の硬直化を招きました。
そして、一方で新しいバレエ文化に寛容であった西側バレエ界との間に、大きな違いを生み出す要因となったのですが、この点についてはまたこの後の章で述べていければと思います。
では最後に、この計画の顛末について述べて今回のnoteは終わりにしたいと思います。☺︎
3.プロパガンダバレエの失敗
何としても「ソヴィエトのシンボル創出」を成し遂げたい政府は、プロパガンダツールとしてのバレエをなかなか諦めず、前述したように、暗黒時代はスターリン時代の終焉まで、約20年にわたって続きました。
劇場への政府の干渉は強くなり、劇場のレパートリーを決めるにあたっては文化大臣の承認が必要になりました。
またバレエ団には、工場や農地での労働の栄光を表すような作品制作の指示がなされ、ダンサーたちにも現実の労働者のように筋肉のついた体つきが要求されるなど、ソヴィエト要素を盛り込んだ人気作品の創出というところに、政府が強く固執していたことがうかがえます。
しかし前述したように、こうした抑圧的なやり方に対して、芸術家たちが本当の意味で、その魂を売ることはありませんでした。
単純に、多くのアーティストたちにとって、無理やり生み出したプロパガンダバレエ作品は、伝統的な作品に比べて魅力的に映らなかったのだと思います。
そしてそれは観客側にも言えることで、物語テーマの作品に比べて現代的なテーマの作品は受けが悪く、プロパガンダバレエが人々を劇的に触発することはありませんでした。
結局、バレエはバレエらしい作品が一番!という共通の認識に落ち着いたわけですね。
フルシチョフ時代に入ってもプロパガンダバレエ制作への取り組みは続きましたが、数多く作られた作品は徐々に姿を消していきました。
冷戦時代に行われた東西交流において、ソヴィエト側のラインナップにこの時代のプロパガンダ作品が全く登場しなかったことからも、このプロパガンダ化計画が失敗に終わったといえるかと思います。
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一方、このプロパガンダ化計画がソヴィエトバレエにもたらした良い面もありました。それは、ソヴィエト内のバレエ人気を押し上げたという点です。
革命前にはマリインスキーとボリショイの劇場と学校しかなかったところが、政府の振興策によって、劇場数は31、学校(国立振付機関)数は15にまで増えました。
また、政策の一つとしてバレエの映画化も行われ、『ロミオとジュリエット』(1954)や『眠れる森の美女』(1958)、またソヴィエト近代革命をテーマにした作品である『赤いけしの花』(1958)が映画化されました。
バレエ学校のドキュメンタリー映画のようなものも制作されています。
こうしたことから計画は失敗に終わったものの、この期間を通じてバレエはソヴィエトの主要な文化的要素としての地位を確実なものにしました。
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プロパガンダ化こそ出来ませんでしたが、引き続きバレエは、ソヴィエトの栄光を示す文化的功績として、政府の権威誇示や正当性の印象付けのために使われていくことになりました。
そして、ついに冷戦がはじまると、今度は文化外交の手段(国外向け)として再び政府に利用されることになるのです。
次章からは、いよいよ冷戦期の話が書ければなと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。☺︎
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