『勉強の哲学』感想
勉強とは、これまでの自分の破壊である。
私たちは、環境(相手)によって別の顔を見せる。
「キャラを使い分けてる」と言う人もいるけど、少なくとも私は無意識で、キャラが「変わる」と言った方が自然だと感じる。
決して、作っているわけではないのです。自然に”そう”なる。
そういうことで、作っているにせよいないにせよ、私たちは常に他者と関係をもち、他者によって構築されているといえる。
私が『みんな』である時、デフォルトは「保守的」であるが、勉強を深めることは、周りの「ノリ」から自由になることということだ、という。
「保守的」の反対は「批判的」である。
勉強を深めることは、物事を「批判的」に見ることから始まる。
そうして勉強を深めると、アイロニー(=ツッコミ)とユーモア(=ボケ)が強まるという。
まじか!と、ここで私は思った。だから頭いい人ってなんかズレてるんだなって。
頭の良い人は変な人が多いと、ずっと思っていたから。
そして私も、できることならそれを目指したいと思っているから。
【メタな立場】
まず、大事な基礎として、自分の環境(コード)を客観視する。
【ツッコミ(アイロニー)】
★根拠を疑う。
『みんな』がなんとなくOKと思っていることの根拠を問題とする。
→「正しさ」を求め、コードを転覆する。
【ボケ(ユーモア)】
★見方を変える
非難する事態を”それはそうだとして”別の見方へ話をひねる。
→見方を変える=コードの拡張
簡単にいうと
ツッコミ:追求型
ボケ:連想型 ということだ。
ツッコミ・ボケという言葉を使うと、お笑い好きの私は完全に漫才を思い浮かべるが、全て納得である。
当たり前のことや無意識のうちに受け入れている事項について、あえてツッコんで問題とする。
そして、思いもよらない方向へ話をズラすボケとなるわけである。
こう、つらつらと書いていくと、それこそお笑いの”当たり前”に触れているわけだけど、原点に戻るような感覚で、なるほどな~と思ってしまう。
これが勉強の基礎である。
そして、勉強とは無限に続けられる事柄である。今はインターネットもあるし、書物も選ばなければほぼ無限大だ。
でも、時間は有限だし、選んでいかないと大変なことになってしまう。
誰にでも「自分にとって重要だけど無意味なこだわり」がある。
例えば、何かで迷っている時、「こっちはなんとなく気にくわないから、そっちにしよう」とか思う時の「なんとなく」のことだ。
そういうのは、今までの自分の享楽的こだわり(欲望)を年表にしてみると、見えてくるらしい。
作り方は本を参照いただきたいが、今の自分がどういう他者に刺激され、どういう時代の中で構築されてきたのかを客観視できるというものだ。一種の自己分析ということ。
読みやすく、飽きずに読める本でした。
ツッコミとボケを毎日意識して生きていきたい。
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