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「宿題はなんのため?」小学生の素朴な疑問に対峙する

小2の娘は、小学生になってからずっと宿題の意味を問うている。

「宿題は何のためにあるの?」
「なんで宿題やんなくちゃいけないの?」

ということで、note 第2弾は小学生の宿題について、考えてみたいと思います。

1. 毎日泣きながら宿題に向かった1年生時代

宿題が嫌だ、宿題がどうしても嫌だ。娘は毎晩泣いていた。

私は考えた。どうしたらいいんだろう。

私個人は、宿題をしてもしなくてもどっちでもいいと思っている。ただただ、学校から帰ってきて眠りにつくまで、元気で笑顔でいてほしい。それだけだった。だから、「宿題」のしゅの字が頭をよぎると彼女の顔が曇り、いつも放たれているキラキラが消えてしまうことが寂しかった。

毎日あの手この手を使って、宿題の時間を楽しく過ごせるように取り組んだ時期があった。例えば、

・音読する時に、声色を変えて読む(犬、赤ちゃん、お年寄り、ロボットetc)
・引き算のプリントの「マイナス」に縦線を付け足して「プラス」にアレンジする
・指定された色の塗り方を好きないろに変更する
・大好きな音楽をかけながらカフェ風な雰囲気の中で宿題する
・庭にレジャーシートを敷いてピクニックスタイルで宿題する
・宿題をお休みする
・音読の代わりに絵本を読む

勝手にたし算を混ぜる。先生の柔軟なお返事にいつも救われました。

2. いざ、決戦の時。先生に電話したあの日のこと

誤魔化し誤魔化しなんとか取り組んできたけれど、夏休みに入る少し前に娘の違和感が爆発した。「なんで宿題やんなくちゃいけないの?」納得がいかない!と怒りを露わにした。

あぁ、これはもう、来るところまできたな。その頃の娘は積極的自由登校(自分の好きな時間、授業だけ登校するハッピーな登校拒否のことを私はそう呼んでいる)をしていたので、宿題が理由で学校に完全に行かなくなってしまうのも時間の問題だなと感じ、娘に問いかけた。

私「先生は何で宿題を出すか、知ってる?」
娘「知らない」
私「じゃあ、聞いてみる?先生に。」
娘「うん」

というわけで、学校に電話をかけて担任の先生に繋いでもらった。

私「娘が先生に聞きたいことがあるみたいなので、話をしてもらってもいいですか?」
先生「はい、喜んで」(娘に電話を渡す)
娘「先生、なんで宿題やんなくちゃいけないの?宿題は何のためにあるの?」

3. 先生とこどもの宿題をめぐる対話がもつ力

先生はすぐに答えてくださった。先生が宿題を毎日出す理由は2つ。1つ目は、学校で習ったことを理解するため、二つ目は、毎日の学習習慣を身につけるため。だから、この2つの目的が達成されるなら、先生はどんな方法で宿題に取り組んでも構わないと思ってるよ、と。

学校で習ったことがもうしっかり頭に入ったと思うなら、配られたプリントはしなくてもいい。先生が出した宿題の形に拘らず、娘が学習習慣を身につけられる新しい方法をどんどん生み出していってほしい、とも。

娘の嬉しそうな顔が今でも忘れられない。「そういうことだったのか!」と、納得がいったようだった。

4. 毎日が自由研究!

この日を境に、娘が宿題に向かうテンションが一変した。「今日は何にしよっかなー」ルンルン音が聞こえる感じ。

ある日は、今日のプリントの内容はもうわかるから、その代わりに楽譜を作ってみようかな!と、ピアノなんて習ったこともないのに家にある電子ピアノの前に2時間以上座り込んで一つの楽譜を仕上げて戻ってきた。

また別の日は、牛乳パックの裏の表記に気になることがあったようで、それについてネットで調べて一つの画用紙にまとめたりもした。多分それも2時間くらいはかかったと思う。もはや自由研究の領域だね。まだまだ1年生。大人の助けを必要とすることも多く大変ではあったけれど、もう暗い顔をして寝る直前まで泣きながら過ごすことは無くなったことが幸せで、嬉しくて、先生には心からありがとうございますと何度もお伝えしました。

何だったか忘れちゃったけど、牛乳パックについてあれこれ考えたある日の宿題

5. 2年生、そしてふたたび、「宿題が嫌だ」

このようにして、1年生の間は先生のたくさんの励ましと柔軟な対応により、宿題との関係を都度更新しながら日々を送っていた娘。

2年生になりました。半年ほどが経った頃から始まりました。
「宿題、やっぱりやだーーーー」涙

そして娘は自ら言いました。
「先生に電話して、宿題について相談してみようかな」

去年と同じように、私は学校に電話をかけて今年度の担任の先生に繋いでいただき、「娘が先生に聞きたいことがあるみたいなので、話をしてもらってもいいですか?」

娘と担任の先生は30分以上話し込んだ。なぜ宿題があるのか、宿題の形を変えて取り組むのはOKか?NGか?先生が違えば学級文化も違う、ルールも違うし対応も変わる。そのことを娘は先生と対話しながらたくさん考えたようだった。電話を切った後、娘はこういった。

娘「〇〇先生(2年生の担任の先生)は、△△先生(1年生の時の担任の先生)とは違って、宿題の形をアレンジすることはしないでほしいんだって。でもその代わり、どうしてもできない時は量を減らしてもいいって言ってくれた」

先生は娘が直接相談してくれたことがとても嬉しい、という大前提のスタンスで、娘の無理なお願いをオープンハートで聞いてくださり、自身として譲れるポイント、譲れないポイントを丁寧にお話ししてくださったのでした。

6. 宿題問題を通して学ぶ関係づくり、そして異文化理解

娘は1年生、そして2年生と2年連続で宿題問題を先生にぶつけて向き合う中で、先生との関係を強くしていったように思います。本音を打ち明けてみる、先生の気持ちや意図を聞いてみる、自分の理解を更新する、先生と一緒に解決策を考える。

誰かと対話することでしか生まれない新しい現実、次なる展開を体験し、その中で自分はどのように行動したいかを都度決めていく道のりでした。

さらに、娘は対話の中で、人にはそれぞれ大切にしていること、願っていることが違うんだということを学んだようにもみえます。宿題をめぐるやりとりは、自分とは異なる事情や価値観をもつ人たち(異文化)と交流し、理解する経験にもなりました。

毎度、個別対応に応じてくださった先生方には本当に毎日毎日感謝の気持ちでいっぱいです。お時間を、エネルギーを割いてくださって、本当にありがとうございます。

7.  【関係論的な学びを大切にする】 3年生もまた先生に電話するのかな

関係によって宿題の意味合いは変わる。
関係が<宿題>の意味を生成する。

関係論を問いたケネス・ガーゲン(2020)は、「すべては協同的に創造される」と言います。もともと子どもが生きる世界に「宿題」は存在しなかったのです。関係の中で、人や組織、文化、社会等との相互作用(ガーゲンは協応行為と呼んでいます)を通して、宿題は誕生したのです。

宿題そのものの意味を問い、先生と対話してみるという、一見面倒くさくて、どうでもいいように思えること。でもそのことこそが、実はこの世界の本質的な部分に触れることであり、そのことを学ぶプロセスなのかもしれません。

そんなふうに思うと、子どもたちの素朴な疑問に対して、私たちが「つべこべ言わずにちゃっちゃと終わらせなさい」と流れるように対応するのではなく(もちろんそう言っちゃう時もあるんだけどさ)一度真剣に向き合い、子どもとの間で言葉を投げかけあってみることには価値があるなと、私自身は感じるのです。

宿題は、きっとずっと向き合っていく課題なんだろうなという予感がしています。
娘の口からふたたび「宿題やりたくない」という言葉が登場した時も、ゆっくりと娘に向き合い、対話して、関係の中で宿題の意味を構築することができますように。

そのために私にできることは、次の3点かなと思っています。
●日々ゆとりを持って過ごすこと
●どんな意見もジャッジせずに聴けるオープンハートを育てておくこと
●対話の結果以上に、対話のプロセスに価値を置く意識で日々過ごすこと

私が小学生だった頃は、何の疑問も持たず「宿題はやらなくちゃいけないもんだ」と思っていたな〜。


引用文献
ケネス・J・ガーゲン著,鮫島輝美・東村知子訳(2020)『関係からはじまる 社会構成主義がひらく人間観』ナカニシヤ出版.

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