【35回】青山新吾・岩瀬直樹「インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと?」を6割読んだ。(190122)
青山新吾・岩瀬直樹「インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと?」(学事出版、2018年12月)を手に入れた。
楽しみにしていた1冊。
6割ほど読み終えた。
エピソード、関係性から考える教育の実践家、青山新吾先生。僕も大きな影響を受けている。
そして、岩瀬直樹先生。「なんという、ワクワクする世界を作るのだろう」。ムンムンエネルギーがわいてくる。空に向かってかめはめ波を打ちたくなるほど。そのお二人が、インクルーシブ教育について語る。
とりあえず、今日学んだことを3つ記す。
1 手法だけ真似する危険性
岩瀬直樹先生といえば、振り返りジャーナル、教室リフォームプロジェクト、ホワイトボードミーティング、プロジェクトアドベンチャーとひとつひとつ、「おお、楽しそう!」という「手法」を次から次に実践していった実践家。
こう書くと、すでに「手段が目的」になって、「単なる模倣」として実践が広がっていってしまうおそれを抱く。
そう。手段が目的になってしまいそうな強い魅力があるのだ。
僕も人のことはいえない。「こうなってほしい」から模倣しようとするが、活動の意味を自分がわかっているか、また必要なことを子どもに説明しているかが大切なのである。
何を説明するか。「学級は何のためにあるのか」を考える。こんな世界になったらどうだろうと話し、子どもに提案していく。つまり、子どもが主役であることを忘れてはいけないのではなかろうか?
2 その子ができないのではなく
例えば、突然叫びだしてしまう子がいるとする。
「どんな環境でも、この子は叫ぶ」
そんなはずはない。
例えば。
A先生といるときは、叫ぶけど。B先生といるときは、ニコニコしている。
音楽の授業では、叫ぶけど。国語の授業では、集中して物語を読んでいる。
給食中、サラダに入っている硬いにんじんが出ると叫ぶけど。
カレーに入っている柔らかいにんじんが出ると、何事もなく食べている。
どの環境でも、という紋切り型で支援を考えるのではない。
また、「自閉症だから、絵カード」というマニュアル的な支援を考えるのではない。
青山先生は、「関係としてみる」という言葉を用いている。
人的環境との関係。物的環境との関係。もしや、子ども自身との内部との関係もあるかもしれない。
関係によって、特徴は変わる。
3 いきなりWISCだけではなく
例えば、「算数の時間になると落ち着かない」という子どもがいるとする。
どうしたら、落ち着いて算数の時間に参加できるか、と相談を受けたとする。
この子には会ったことがない。だから、相談者から情報を得ないとわからない。
WISCの結果を出してきた。この子の特徴はわかる。
しかし、僕が要求するだろう。
「この子のエピソードを教えてほしい」
算数の時間の様子。この子がどんなとき、どういう行動をとるのか。先生は、周りの子は、この子は、どう思っているのか。どうしたいのか。そして実際、先生は、周りの子は、どのように関わっているか。
他の時間の様子はどうか。他の先生の授業ならどうか。他の教室ではどんな様子か。家庭ではどうか。
この子を知りたい。この子を見たい。この子と同じ時間を過ごしてみたい。興味がある。
青山先生はいう。
WISCだけで、また他の検査をしても、検査だけでは終わらないのは当然。
フォーマルとインフォーマルのアセスメントが必要。
しかし何よりも、一緒に生活しているからこそ、一番その子のことを理解し、一緒に悩むのが担任ではないか。
一緒に生活しているからこそ、その子のエピソードから考えていくことができるのではないか。
こう書くのは、僕がこうありたいからである。
最後に
読み終えたとき、この本から学んだことを要約してまとめておく必要があるだろう。
僕にとっては、これからの教育を考える上で、重要な本である。理由もまとめておこう。
いったい。同年齢集団で、一斉に、同じ内容を学ぶ意味はあるのか。
重度の障害児が地域の学校に通うこと。居住地から離れた特別支援学校ではなく、地域の学校に通う事例を急に思い出した。
「分ける意味」は何か。
頭の中に浮かぶ、クエスチョン。
特別支援学校教諭の僕が、通常学級のインクルーシブ教育実践の本を読む。
これだけでも、異質。
教師でさえ、いろいろな教師がいて、職員室ができあがっているのだ。
いろいろな子どもがいること。
いろいろな興味を持っている子どもがいること。
困ったら助けを求め、求められたら助ける。
自分のことを受け入れてくれて、まわりの人を受け入れている。
緩やかにつながっていること。いい塩梅の世界。
岩瀬先生がいう「緩やかな協同性の中で必要に応じてつながる」は、憧れの世界。
さあ、まずは最後まで読んでみよう。ワクワクする。