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【9回】新年、「年頭自警」その1(190101)
新年といえば、「年頭自警」
毎年、元旦に目を通すのは、安岡正篤の「年頭自警」になる。
一 年頭まづ自ら意気を新たにすべし。
二 年頭古き悔恨を棄つべし。
三 年頭決然滞事を一掃すべし。
四 年頭新たに一善事を発願すべし。
五 年頭新たに一佳書を読み始むべし。
(「安岡正篤 人生信條」致知出版社、2009年6月、p19)
一 年頭まづ自ら意気を新たにすべし。
新年になり、爽やかな気分である。その爽やかさが何日続くかはわからない。
考えても仕方ないことは、考えない。なぜなら、爽やかな気分でいられるということは、僕の中に、例えば落ち込んだとしても、爽やかな気分を作り出す機能がしっかりと働いているからである。
心配はいらない。気持ちを新たにしよう。
二 年頭古き悔恨を棄つべし。
頭の中に浮かぶ苦しみ。フラッシュバックといっていいのか、目の前がぼやけて、過去が上映される。しかし、上映されたものにのめり込むことはない。明らかに、谷底に落ちた昨年6月の頃よりは、とらえ方が違う。
辛い過去なら捨てればいい。けれども、さっと捨てることができなかった。ずっと背負ってきた様々な辛いこと。捨てられない理由があったからだ。
「トラウマのような過去があるから、活動ができない」
そうであれば、まわりの同情も得ることができる。つまり、何か活動をするとき、「辛い過去」を「活動を止める理由」としてまわりの人々に提供することができる。過去は武器なのだ。心に「活動をすると失敗する。止められる。嫌われる」という考えが浮かんでいる。無意識に。思考の癖になっている。過去という武器を捨てると、言い訳ができなくなる。失敗と向き合う可能性が出てくる。同僚と対決しないといけなくなる。嫌われることで居場所を失う恐怖を感じる。
だから、過去を捨てることができない。
それではいつまでたっても、僕の行動は変わらない。
教師をやりたいのだろう?
子どもと時間を共有して生きていきたいのだろう?
過去を捨てて活動し、同僚から厳しい目で見られても、生徒から呆れられてもだ。僕が決めた行動で、僕の人生だから、耐えていくしかない。
いや、我慢は違う。それはアドラーでいう「権力争い」に巻き込まれているのだから。
離れて見ればいいのだ。
おそらく、職場に復帰してから。一日一日が、リフレクションを必要とし、自分と向き合う日々となるのだろう。
だが、過去を利用したくない。過去を捨てよう。
淡々と、いい塩梅で進めるように。
続きはまた、明日書こう。
今日は、飛んでいる白鳥が水面に降りてくる場園を見た。2羽が繰り返し旋回し、クロスし、着水する。それぞれが離れたところに降りたため、すっと向かい合い寄り添っていく。彼らはどうやら夫婦のようだ。
心にこみ上げるものがあった。
元日から、晴れ晴れとする気分だ。