近藤和敬『人類史の哲学』の雑な感想①
この書物の目的を一言で言えば、「今とは別の仕方で思考するために」とでもなろうか。別の仕方で、とはわれわれが生きる近代資本制社会の価値とは別の価値を見出す、ということだ。
著者の前著は『ドゥルーズとガタリ(以下D&G)の『哲学とは何か』を精読する』であった。D&Gは同書において、古代ギリシア、近代資本制社会という哲学にとっての2つの歴史的契機に続く第3の来るべき契機に呼応する、哲学の「未来形式」を創出する必要性を説いていた。近藤の今回の本はその必要に応えたものと言える。つまり、私には前著から今回の『人類史の哲学』への道は、著者にとって必然だったように思える。
とはいえなぜ「人類史」なのか。今回の本では文化人類学への参照が頻繁になされるが、これはD&Gの議論で言えば、『哲学とは何か』の前に書かれた『千のプラトー』に近付くように見える。実際、近藤のX(Twitter)でのポストによれば、今回の本は『哲学とは何か』でD&Gが到達した地点から改めて『千のプラトー』の議論を振り返るような構成となっている。素朴に考えれば、人類史を考えることは近代資本制社会を相対化する視座を得るためにも必要だとは思う。今現在、近代資本制社会とは違う社会を調べるだけでは十分ではない。人類の歴史の中でなぜ、いかに近代資本制社会が出現しここまでの力を得たのかを知らねばならない。近代資本制社会は歴史上のある時期に出現したものだから、それは必ずしも必然的なものではない(歴史の「発展」の「必然」を説くならば別だが)。人類は長い間それを知らなかったし、これから別の社会が来るのかも分からない。しかし現状、われわれはそれにどっぷりと浸かっていて、そうでない社会など想像もできないのは確かだろう。「資本主義の終わりよりも…」という例のヤツだ。
以下は取り留めのない断片的な感想となる(まだ一読しかしてないので半分も理解できていない)。
交換や再分配の議論の出てくるところは、柄谷行人の近年の著作を想起させる。近藤の独自性としては、こういった文化人類学的議論に自身の出自であるフランス・エピステモロジーの議論を継いでくるところだろう。近代論としてはラトゥールのそれが参照されているし(362頁の近代社会の構造の図は秀逸だと思う)、古代ギリシアでの学問の成立の議論にも、知がいかに成立した/しているのかを問うエピステモロジー的視座が生かされている。
古代ギリシア哲学史の部分では納富信留の著作が多く参照されているようだが、例えば近藤はポパーの議論(勿論『開かれた社会とその敵』のことだ)をどう捉えるだろうか。また、自然権/自然法の議論の箇所でレオ・シュトラウスが批判的に参照されているが、シュトラウスには『都市と人間』という著作もある(これは近藤が都市の成立と学問のそれとをパラレルに捉えているところからの思い付き)。市場―都市―学問という三位一体。
終章は(/も)難解であまり理解できていない。著者が注で述べている通り、『哲学とは何か』の地点から『差異と反復』の議論を捉え返している…のは分かるのだが…。補論9もここに関係しているのだろう。終章の鍵概念(の一つ)は「条件的なもの」で、補論9ではその例として数学を持ってきているのだろうか。
異律的主体/異律的ものどもの巻き込み/巻き込まれの議論も十分には把握できていない。この議論のミソは、各個体(という表現がそもそも不適切なのだろうが)の輪郭・境界はぼやけていたり曖昧だったりするにせよ、それらの中心に行くに従ってそのもの性が濃くなっていく、というところだろうか。間違っているかもしれないが。