映画『窓ぎわのトットちゃん』感想
原作は未読のため、今回の映画のみの感想となる。
まずはキャラクターデザイン。最初子どもも唇にはっきり色がついていて違和感があったのだが、観ているうちに気にならなくなった。また笑い顔・泣き顔が崩れて不細工なのは、よりリアルではある(製作にPRODUCTION I.Gが入っていることで思い出したが、押井守『イノセンス』の終盤出てくるプラント船の少女の叫ぶ顔もそんな感じだった)。これらの顔についても、昔『おもひでぽろぽろ』を観た時に違和感を覚えた、顔の口が上がった時の皺と同様の違和感があったが、これも気にならなくなった。多くの人は『窓ぎわのトットちゃん』と言えばまずいわさきちひろによる表紙絵を想起するだろうが、アニメ版のキャラクターもこれはこれでいいと思う(以前行った安曇野のちひろ記念館にはトモエ学園の電車を模した展示があったような。記憶違いかもだが)。
で、そのトモエ学園。こんなリベラルな学風の学園をこの時代に維持するのは相当な困難があったろう(近所の悪ガキどもに学園の悪口を言われ、それを撃退する学園児童たちの姿を見て小林校長が肩を震わせるシーンがそれを暗示する)。そんな学園も戦争後期には軍人たちが介入し、軍国教育を否が応でもせざるを得なかった。映画終盤の学園講堂に貼られた掲示物や講堂の彫刻の変更(ギリシア彫刻?から金次郎へ)から分かる。そして児童を疎開させざるを得ない状況下で掲示物を破り捨てる校長の姿が胸に迫る。
劇中、トットちゃんの想像(あるいは夢)の世界が描かれ印象的だった。記憶によれば3つだ。トットちゃんがはじめて教室電車の机につく時、裸のプールのシーン、泰明ちゃんに『アンクル・トムズ・ケビン』を借りた晩の夢。それぞれが違う表現技法を使っているように見えたが、上手く説明できない。前2つが躍動感をメインした作画、後1つは世界が変容していく様への不安が強調されていたようにも思う。後述する『この世界の片隅に』でも作画が切り替わるシーンがあったが(晴美の亡くなるシーン)、それとも違う。劇場パンフにもあったが、アニメならではのシーンで、上手く機能していた。
泰明ちゃんの葬儀場となった教会からトットちゃんが走り出すシーンも印象深い。一心不乱に走るトットちゃんの周りには、出征を祝う人々や戦争ごっこに興じる子どもたち、傷痍軍人や子どもの死を泣き続ける老母などが映し出される。このような現実にトットちゃんも適応していく姿が終盤描かれていく。それは強いられた成長だったと言えよう。このトットちゃんが駆けるシーンで流れていたのは讃美歌だろうか。
『窓ぎわのトットちゃん』と『この世界の片隅に』を比較することはできるだろうか。もちろん優劣をつけるためではない。戦争への抵抗を控え目ながら描いた点では共通するだろうか。前者ではトットちゃんの借りてきた『アンクル・トムズ・ケビン』を読んだトットちゃんのパパが、軍歌を演奏することを拒絶するシーン(これは自分だけでなく妻子も飢えさせる決断であるから、相当強い信念だったろう)。後者では敵の降伏勧告のビラを尻拭き紙にし、また玉音放送に激高するすずさんのシーン。障害については、前者では障害を持つ者との関わり方が全編に渡るテーマであった。後者ではすずさんは(精神的な面では最初から「変わっている」とはいえ)途中から障害を負う。すずさんの障害は、それまでのスケッチをする能力を失うことで周りとの関わり方を変えざる得ないものであった点では主要なテーマではあるが、それに尽きるものではあるまい。…どうも今の私には、この2作品をきちんと比較できる力量はなさそうだ。
最後に、蛇足ではあるが。昨今欧米では映像に限らず子どもの裸が出てくるシーンが忌避されるそうだが、その点は大丈夫だろうか。もちろんここは欧米ではないし、作品上必要なシーンではあるのだが、海外展開で問題になりはしないかと気にはなった。
ともかく、こういう作品がつくられ、また観客がいる(私が観たときは子ども連れや障害者連れが目立った)ことに少しは希望が持てるのではなかろうか。日本に、またアニメに。
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