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新海誠作品から見る、ツッコみたくなる映画、そうでない映画があるのはなぜか
※ネタバレを少々含みます。苦手な方はお戻りください。
2回目の戸締まり、いってきました。
今回は、IMAXで。映像美と音楽が本当に素晴らしい…
『すずめの戸締まり』が伸びていますね。
新海誠作品イチの滑り出しで最終的に『君の名は。』を超えるんじゃないかなんて今からワクワクしています。
僕も考察などなど雑感を書いているのでぜひ↓↓↓
中でも個人的おすすめはこちら↓(笑)
そんな『すずめの戸締まり』ですが、賛否両論あるのは事実です。
今作含む直近3作は「災害」をひとつ作品のテーマに据えていますが、『君の名は。』『天気の子』では現実に起きていないことを扱っていました。
しかし、今作の『すずめの戸締まり』は現実に起きた震災を扱っています。
新海監督なりの考えがあるのでしょうが、
おそらく、作品の評価において1番の変数になる場所なのかなと個人的に思っています。
僕個人としては、震災の被害の当事者ではなかったこともあってその点はマイナスの評価になるような気になる部分は感じませんでした。
「よくわからんけどなんかひっかかる」はなぜ生まれるのか
![](https://assets.st-note.com/img/1669438532762-MdBxxVRyCW.png?width=1200)
刺さる映画、刺さらない映画。
人それぞれあるものです。
経験上、刺さらない映画は、
「なんかひっかかる、だからツッコみたくなる映画」と言い換えることができるんじゃないでしょうか。
個人的な話を、新海誠作品を例にとって話すと、
実は「天気の子」は僕にとってあまり刺さらない映画、ツッコみたくなる映画でした。
もちろん映像は綺麗です。ストーリーも嫌いではないです。感動もします。
でも、なんかひっかかる。
この違和感の正体がなかなか分かっていなかったのですが、「『現実』との乖離具合」が1つのキーファクターなのではないかという仮説を提示したいと思います。
(注:映画の評価のポイントは人それぞれなので、これが正しいとは全く思っていません)
前提として、映画を見ている人がどのように作品を受け取るのかを整理してみます。
作品の受け取り方
ざっと図解にするとこんな感じでしょうか。
作品サイドと人サイドで分けて考えます。
![](https://assets.st-note.com/img/1669435776101-b3gbTbnhO8.jpg?width=1200)
作品サイド
映画は、幾つか軸に分解できると思っています。
家族の絆、ボーイミーツガール、ロードムービー、映像美、音楽の素晴らしさ…
作品の内容に関わるところから、音楽まで、いろんな軸があると思います。
(例で挙げたのは、もろ『すずめの戸締まり』ですね笑)
これらは受けて側に伝わっていきます。
人サイド
受け手側の人には、属性があります。
自身の境遇、趣味、趣向…etc
これらがその人の「感受性アンテナ」の張り方を左右しています。
(たった今、勝手に名前を付けさせていただきました。)
美しい音楽が好き、キャラクターと似た境遇にあるなどの要因が、「感受性アンテナ」の大きさや有無を変えており、大きなアンテナに軸が「ハマる」と「心に刺さる」という現象が起きます。逆に、図解のように軸4に対して受け手側がそもそもアンテナを持っていないケースもあります。
個人が持つ「現実」
前提を整理したので本題です。
上記から、各人が持つアンテナはひどく主観的で個人的なものです。
(趣味趣向とか境遇からできているものだからですね。)
アンテナは似たものでも決して同一ではなく、各人には基準があり、それを「現実」と呼んでみたいと思います。(ほとんどの人は空想のようなことを基準値に持ってきておらず、現実と近似できそうだから、という理由です。)
この「現実」と作品の軸を照らしたときに合致する場合、人は疑問を持つ前に作品に惹かれ、没入します。(前章で「ハマる」と表現したのはそういうことです。)
逆に、アンテナと軸、「現実」と軸が合致しない、つまり「ハマら」ない時は「なんかひっかかる」と思ってしまいます。
アンテナが大きい(=受け取られやすい)ところほど、「現実」と軸のズレが気になります。「ちょ、ちょっと待って」と言いたくなります。
これが「現実」との乖離具合ということです。
僕自身の経験。「天気の子」を観て
![](https://assets.st-note.com/img/1669438382832-x4tr3rybpe.png?width=1200)
なんだか抽象的すぎてしまったので、僕の話を具体例として挙げてみようと思います。
「君の名は。」が刺さりすぎて、楽しみにしていた「天気の子」。
しかし、最初に言ったように、僕には「天気の子」がそこまでしっかり刺さりませんでした。(決して嫌いというわけではないです。いいなと思うところもたくさんです。)
これは後半のシーンで、帆高が(協力してもらって)あの手この手で警察から逃げ、線路までも走り、陽菜のところへと急ぐシーンから、人柱として空に行った陽菜を地上に戻して東京が水没するところ。
「いや一体いくつ罪を重ねるんだ君(帆高)はっっっっ」
と叫びたくなったり、
「東京が水没…?え???ちょっと待って??」
壮絶な愛のストーリーの末、「世界の形を決定的に変えた」の意味はこれかあ、と伏線をしっかり回収しているのに気づいても尚、腹落ちしない感覚が残っていました。
おそらく、僕の「現実」が犯罪に犯罪を重ねることに対して拒否感を持っていたり、そこまでした会いたい人ができた経験がなかったりしたこと。
東京は簡単に消えたりしないんだ、と心の深くで思い込んでいたことが疑問や上記の叫びに繋がったののかもしれないです。
こうしてみると、映画を見るだけで自分の凝り固まった「現実」や関ジュ絵性アンテナがどんなものかわかるような気がしますね。
そんな目線で映画を観てみると新たな発見があるかもです!ではまた!