King Gnuの『ねっこ』を鉄平の人生のテーマソングにしたくない
『海に眠るダイヤモンド』最終回の余韻のせいで、寝ても覚めてもつらい。
あのコスモスの景色が最高だっただけに、そして『ねっこ』がかかるタイミングが最上だっただけに。
私は元々King Gnuをボーカルの井口くんのオールナイトニッポンから知ったタイプのラジオリスナーで、それからずっと好きで曲も聴いていたから、友人たちに海に〜を勧められて観たときも「新曲の主題歌のやつか!」と膝を打った。ぴったりじゃん!
心ふたつ悲しみひとつで
最初は、この歌詞が百合子と賢将の夫婦の絆を表しているという考察をよく見かけた。
何それ、素敵すぎる。
ねっこの歌詞の方は、「心のふたつ悲しみひとつで何十年も咲き続ける花 無常の上にさあ咲き誇れ」と続く。
被爆者だから子供が産めない、結婚できない。カトリックだから離婚はできないと、誰かのせいでカテゴライズされた自分の要素をアイデンティティみたいに言う百合子。
インターネットがない時代に、片っ端から情報と資料をかき集めて安心させる賢将。もう自分事なんだもんね。
知は力なりで杞憂を吹っ飛ばして何十年も連れ添うことができた夫婦と、無知蒙昧によって自分たちだけでなくその家族も破滅させる事実婚カップルとの対比も切ない。
ささやかな花じゃなかったよ、あなたは
鉄平との再会は最期まで叶わなかったけど、季節がめぐる度に咲く一面のコスモスは残されていた。
だから、『ねっこ』というタイトルはああやって次の世代へ受け継ぐものだったり、端島という土地に根を張って踏ん張って生きてきた人たちそのものを象徴しているのかなと思った。
ヤクザに追われる生活へと一転してしまって、「誰も気づかないありふれた1輪」であり続けることを選択した鉄平を想うと気持ちのやり場が見つからない。
だから、常田さんが「ささやかな希望」を込めてくれた意味はものすごく理解できる。鉄平にとって、朝子にとって、お互いが不在の人生の中でお互いの存在がそうだったように。
だけど、本当なら鉄平はひっそりと見つけてもらうのを待つコスモスじゃなくって、大輪のひまわりだったはずなのに。朝子だけじゃなく、もっともっと多くの人たちにとって。
「外勤さんになりたかったのかも」
「ただ、元気?って声をかけたかっただけなのかも。外勤さんみたいに」とおどけて笑ったいづみさん。
私が鉄平をひまわりに例えたのは、その花言葉が「あなたを見つめる」だったから。朝子のことも、家族のことも、そして端島で働く人々のことも。ずっと見つめて、見守ってきたよね。「情熱」とか「敬慕」もまさにそのまま。
だけど、続く人生はコスモスだった。「幼い恋心」、「調和」、「謙虚」。
大好きな『幸福な王子』という絵本を思い出した。もしも、人生にとって重要な場面で二択を迫られたとき。私も常に、自分を犠牲にして他人を優先する生き方がなによりも尊くて美しいはずだとそちらを選択してきた。
だけど、ここ数年はなんか間違ってる気がいつもしていたし、それが鉄平のおかげで確信に変わった。
だって、自分を犠牲にすることで得をしたり助かる誰かが一方で、いちばん大切な女を泣かせてるじゃん。視聴者のことも泣かせてるじゃん!!
自己犠牲的な生き方は、自分以外にも犠牲を強いる運命に繋がることがある。
自分自身も、誰かにとってその人自身を犠牲にしてでも守りたい存在なのかもしれない。そう思ってくれる人も、どこかにいるのかもしれない。だから、大切な誰かを泣かせないためにも、自分で自分のことを大切にしなきゃいけないんだろうな。
朝子はきっと、それがわかってた。気張って生きたよ、立派だった。