輪廻転生、因縁について(後編その2)
「輪廻転生」「因縁」について(後編その2)です。
前回(後編その1)では「輪廻転生」の真相について記しました。
今回は「因縁」というものの真相について記しはじめていきます。
「(狭義の)因縁」というと、
「何か苦しいことがあれば、過去に罪があった」とか、
「今楽な思いをしているのは、過去に功徳を積んだからだ」
などといったことで使用されたりするもので、
今でもよく聞く発想です。
すなわち簡潔に言えば、
「善いことをすれば楽な結果、悪いことをすれば苦の結果」
(善因楽果・悪因苦果)ということが昔から言われてきたことです。
しかし、これを現代人が本当に事実とみなしうるでしょうか。
「善いことをしても良い結果が全然ない」
「悪人がいい思いをしているのを見かける」
「今良い結果にある人が、善人で過去世で功徳を積んでいるとは思えない」
「今苦しいが、過去にそれほど悪いことをしたとは思えない」
など、そういった感覚が芽生えることも多く、
「善因楽果・悪因苦果など別に事実ではない」
と思う心の方が強くあるのではないかと思います。
これは「従来の説示が、方便・未解説の部分が大きい」ことに原因があるというのが真相なのです。
そこで、「因縁説」について、深い真意を記していくものです。
「輪廻転生、因縁について」(これまでの記述)
前編(一般論) https://note.com/enman1204/n/ndb0c43dac991。
後編その1 https://note.com/enman1204/n/n4cbe4a228360。
因縁について(はじめに)
因縁について前編で一般論などを記した。
「善因楽果・悪因苦果」ということが基本原則として説示されているということであった。
さらに前編で、”一般論以上のこと”も記した。
「善因楽果・悪因苦果」ということは、基本原則として世界に備わっている。
そこにおける「善」とは、実は「身体に理があるような感じで、生き方に理がある=その理に沿っていること」であるということを説明したものである。
しかし、それでも単純な「善因楽果・悪因苦果」という説には無理があるように思われる。
基本的な理解だけでは「到底受け入れられなくて当然」というほど、実際は複雑怪奇なものとなっていて、「簡略的な理解と現実には齟齬が生じているから」である。
そこで、真意を説示するものである。
1節.善因楽果は根本原理、実際は複雑系(しかし複雑な中にも基本形は現れる)
まず、最初に認識するべきは、
「善因楽果は根本原理、実際は複雑系」ということである。
先に言うと「善因楽果・悪因苦果」それ自体は全くの真実である。
根幹的真理である。
【註1】ここでいう善悪の基準:人間都合のものではない
ここで気を付けておかれたいこととして、そもそも「”善悪というものの基準”が、世間のものは真理ではない」ということは重要である。
善悪とは、「健康・不健康や上手・下手というものが、理に沿っているかどうかであることが正体・本質的原因であることと似たもの」であり、「生き方に予め定まっている理がそのようにあって、それに沿っているかどうかが本当の善悪」であるといったことを説明した。
つまり、人間が勝手に思うような、しかも人間ごとに異なる基準によって裁かれるような善悪は人間都合・個人都合のものであって、それは真理ではないということであり、反対に「本当の善悪」は「世界に構造的に合理的なものとして本当に予め定まっている」ということである。
【註2】善悪には、絶対的部分と相対的部分
一応、この時点でさらに注釈しておくと、その「本当の善悪」も「全てが絶対的に決まっているものではない」。
例えば健康というものは予め身体に定まっている理に沿っていることと説明したが、それを取ってきても、全ての人間に共通した理もあれば、個人の身体ごとに異なる理(構造など)もある。
また季節によって、取るべき行動の理は異なるなど、「相対的・背景依存的な部分も存在する」。全てのものは絶対と相対で成立しており、一様かつ多様であるということはまた、別に執筆しなくてはならない。
ともかく、身体の理といっても、このように「絶対の部分」と「相対の部分」がある。善悪にも予め定まった理があるといっても、このように「絶対的な部分と相対的な部分がある」ということは、善悪はそれほど明確ではないのではないかと懐疑する人の為に、先に説示しておく。
重要:善因楽果は根本原理、実際は複雑系である!
善悪の基準が、健康・不健康などのように世界に予め備わっていることを前提として、「善因楽果・悪因苦果」“それ自体は全くの事実“であり、本当にそのような原理原則が世界に備わっている。しかも生において、“根本的真理”として本当に備わっているのである。まずは、これは事実である。
ただし、ここからが重要な点である。
この善因楽果・悪因苦果は“基本原理”である。それも“極めて基本的な”、“最もシンプルな”原理である。
ところが、現実世界はそのような基本的な姿のものではなく、むしろ「膨大な要素が絡み合って成立する」「膨大複雑な総体」である。
そこで、この基本原理はこのような単純な型として有るわけではなく、「複雑に入り組んだものとして存在」することになる。この基本原理は、その複雑系の前では、そのまま現れることはないということである。
【喩え】PCで喩える
そこで、PCで喩えてみることにする。
PCは実は「0と1」の二進数で作動しているということは有名な話である。
つまり「0,1」という「単純な原理原則」だけが基本となって、
これが複雑に絡み合って展開することで、実際のマクロなPCの複雑な作動を実現しているのである。
そこで「0,1(二進数)」が全ての基本原則として根底にあるわけであるが、
それにより表面に実現している複雑な現実においては、もはや「0,1」などという「単純な原理原則」はかき消えてしまっているものである。この文章をPCなりタブレットで読んでいても、そのように「0,1」の二つの挙動だけで成立しているとは一見思い難いであろう。
これが基本原則と、複雑な現実ということである。
ただしボタンの「オン、オフ」などに、その基本的な構造は表出もしている。
或いは裏地の白色と、文字の黒色で光っているものと、黒のものとで二元的になっている。光のオンオフという二元的なもので、画面が成立している。このように見れば、そこかしこに二元的な姿もしっかりあるのである。
基本原理(基本構造)は基本故に、マクロでも概ねその構造が伴うものである。
(原子の構造が、恒星系の構造と似ているようなものである)
このように、基本原則は、複雑な現実にも表出するものである。
(喩え終わる)
この「善因善果・悪因悪果」というのは、
おおよそこのようなものになっているのである。
(1)「基本原則として確かにある」のである。
(2)しかし現実はこれが複雑に絡み合って起こっているがために、その前に掻き消えもしているといったことになっているのである。
(※)しかしまた一方では、実は普通に二元構造はそのまま表出もしている。
ここで、かき消えているからといって、「善因善果・悪因悪果はもはや事実ではないとは言わない」であろう。
むしろ完全に、「根源にある原理原則」として「ある」ということである。むしろ完全にある。
それが、複雑に絡み合っているだけなのである。そして結局は同じ構造が表出もしてくるのである。
故に単純に「善因楽果・悪因苦果」と言われた場合には、「現実は一見してはそうなっているように見づらいことが多々あることになっている」のである。
ところが過去の説示においては、まず「基本的なことが単純に教えられた」が故にこの単純な説示のみがあって、成長してきて複雑化した衆生においては「そのような単純な理解は破綻してしまい」、見失われているということになっているだけなのである。
今見たように、「基本原理と、その複雑系」というように理解すれば、矛盾なく事実が理解され、「成長した新たな時代において理解の可能性が開かれる」であろう。
これが、「原理原則としての善因楽果・悪因苦果」と、「その複雑系としての、現実の真相」である。
これが「因縁論」の最も基本に据えるべき理解である。
2節.輪廻転生における因縁
善因楽果・悪因苦果ということが、
単純ではなく「深い事実」であることを説示した。
そこで次に、「輪廻転生において」どのように作動しているかということに進んでいく。
この「因縁」は事実であるわけであるが、
そもそもこの原理は「輪廻転生」と共にある原理である。
ということは「この一生だけで命が完結する」という理解では、通用しないように見えて当然である。あくまで「輪廻転生」とのこの「(狭義の)因縁」とは、セットのものとしてあるものである。
…「輪廻転生」において根本的に働いている原理が「因縁」であるという関係である。或いは「因縁」によって「輪廻転生」が形成されているといってもよい。
輪廻転生が事実であるならば、「一生は=その大きな命の一生における一日のようなもの」に過ぎない。
※輪廻転生にはっきり自覚的になるとき、このことははっきりわかる。人間の知能ではじめて一生や一日という認識がはっきりするように、ある程度の霊性が素直に開かれたときにこれは分ることである(人間まで至っている者であれば、素直にさえなれば誰でも可能である)。
そこで、一生ということを喩えに見てみれば、
一生というものは連続してあるということが事実である。そこで「一日だけを完結したものとして区切ったならば認識が誤っている」。
例えば病気をしていて、この薬を飲めば(数日間すれば)治るといった事実があったとして、一日で完結したものと認識して一日の中だけで捉えようとすれば、薬を飲んでも治らないということになったりする。あくまで身体は連続してあるものであって一日で区切れているものではなく、薬を数日間飲めば治るということが事実であって、それを一日で区切れば真実ではなくなってしまうのである。
これと善因楽果・悪因苦果は同じことである。
一生という区切りで見たならば、「病気について一日だけで完結したものとして見ようとすれば、一日で治る病気もあるように短い期間で成立するものもあるとしても、そのほとんどは事実ではなくなってしまう」が如く、輪廻転生という事実におけることが見方の誤りによって矛盾しているかのように誤認してしまうのである。
重ねて示すが、「因縁」はあくまで=「輪廻転生という、長い連続した期間における原理」であり、そこにおいて複雑に絡みこんで複雑怪奇に成立しているものだということである。(ここを間違えると、また理解することができない。)
そこで、「因縁ということは、輪廻転生とセットで説示するもの」である。
これまで輪廻転生のしくみについて説示してきたが、今回はそこに因縁を根源原理として加えてさらに説明するということである。輪廻転生において、因縁が根源原理として作用している。
そこで因縁について、輪廻転生とセットで見ていこう。
【根源】善因楽果・悪因苦果
そこで、因縁を輪廻転生で見ていくと、最も単純形としては例えばこのようなことである。繰り返しになるが記載する。
<単純形>
「過去世で功徳を積んでいたから、今世は良い思いをすることができている。」
「過去世で罪業を積んでいたため、今世は苦しい思いをしている。」
現代でも、良い結果(とその人が思っている)にある人などを見て「過去世でどんな功徳を積んだんだ」などと、冗談か慣用句のように言われたりしているのをよく見かける。このような認識が、簡略的で一般的な認識の「輪廻転生と因縁のイメージ」である。
そして実際に「基本原則としては」こうで間違いない(のだが、その複雑系が実相)、と既に述べたものである。
【語句の導入】「功徳」「罪業」という語句
ここで、もう一つ説明しておくべき語句がある。
「功徳・罪業」といった語句である。
端的に説明すれば、
・「功徳」とは「善いこと(をしたことによる+の霊的エネルギーのようなもの)」、
・「罪業」とは「悪いこと(をしたことによる-の霊的エネルギーのようなもの)」、
といったことをいう。
つまり、善因に伴うものが功徳、悪因に伴うものが罪業として対応しているものであり、善因=功徳・悪因=罪業として頭を切り替えていただいても差し支えない。
「善因楽果・悪因苦果」は=「功徳を積めば楽果・罪業を積めば苦果」ということである。
そこで、「功徳を詰めば良い結果、罪業を積めば悪い結果がある」ということが、輪廻転生において機能しているということである。
ところが、実際には、
・真面目にしている者が損をしていたり、
・悪人がよい思いをしていたり、
・苦しい思いにある人が過去世に他の人以上の罪があるとは思えない
といったケースが散見されて、それが納得がいかなかったりするわけである。
そこで、この複雑怪奇に実現しているその内実を説明していくものである。
2節1項.【基本】輪廻転生とはおでかけである
輪廻転生とはおでかけであるということを既に説示した。
これを取っ掛かりに理解するとわかりやすい。
そこでまずは、大胆な喩えから入ってみようと思う。
輪廻転生と因縁の複雑系ということについて、まず簡単に直感的に理解するのに手っ取り早いかと思い、提示するものである。
この喩えのあとに、体系的に整理して説明していく(次回)。
【導入の喩え】「京都にいる人、京都観光」(基本を垣間見る)
よく使用する喩えで説明しよう。
「京都」を訪れると、「沢山の人がいつもごった返している」。
そこで京都にいるからといって、京都人ばかりかと言えば、実は全く反対に京都人の方が少ないのである。
京都にいる人は、京都の外から来た人ばかりであり、(頑張って経済を貯めて)観光に来た人ばかりである。そして「人気店」や、「人気な観光地」には京都人以外の人が多く並び、あるいは「着物」なども京都人以外の人たちが着ていることがほとんどである。※無論、京都人が並び、あるいは着物を着ていることもある。
輪廻転生とは、少し無理ながら簡単に喩えればこのようになっている。
輪廻転生とは「おでかけ(留学兼旅行と喩えることにする)」であると、すでに以前の記事でも喩えを使用したとおりである。
物質界のおでかけでは“物質的豊かさ”すなわち「物質的経済」をもとにおでかけをしたり反対に諦めたりするように、輪廻転生では“霊的な豊かさ”すなわち「功徳と罪業」をもとに転生をするというようなことになっているのである。
(1)そして、「京都には京都人が少ない」ように、「人気な項目はその項目を本来有しているわけではない人たちが占めていたりする」のである。例えば、「経済的に成功している人は、実は霊性界ではそれほどではないが、今回の一度において観光のようにそれをしに生まれて来たりしている」ということである。
「顔の美醜」なども人気であり、よく現代の衆生間では「顔の美を以て、どんな功徳を積んだのか」などと表現していることを見かけるが、霊的階層が高いものが美しい顔に生まれてくるということには現実としてはなっておらず、「人気店ほど、その地の人ではない人がやって来たりしている」というのが真相である。
これは人気な項目ほど、そのようなことにもなっていたりする。
そこで「人気な項目を備えている=霊的階層が高いとは全く限らない、それどころか反対のケースも多い」という事情があるということである。
(2)ところがその一方で、「京都人が本気を出せば、外部者よりもスムーズに観光地を巡ることもできる」ように、「霊的階層が高いものがその気になれば、人気な項目を備えて生まれてくることも可能」といったことになっている。仏教でも、例えば顔の美醜という話は明らかに登場しており、基本的に「功徳があれば=霊的階層が高ければ、顔は美しいことになる」というのもまた真実であるということが説かれているが、これもまた基本としては本当にそうなっているのだということでもある。
(3)またさらには、「それ相応の人でしか立ち入れない場所」もあったりする。そのように「霊的階層が高いものしか、伴うことができない要素というものもあったりする」。
今(1)~(3)をとりあえず挙げてみたが、このようなことが「矛盾」という訳ではなく、「複雑怪奇に絡み合って現実は実現している」ということが、輪廻転生の実相なのである。
このようにして、輪廻転生とは、功徳と罪業を元にして、おでかけのようになっているということである。
そのように理解すれば、複雑怪奇に実現していることが紐解かれていき概ね理解しやすくなる。
導入喩えのまとめ
そこで、一旦整理することにしよう。
●輪廻転生とは、おでかけ(仕事兼旅行)のようなものである。
勉強・仕事をしながら、遊びもするというようなおでかけである。
●そこで、輪廻転生(仕事兼旅行)の内容は、「功徳と罪業に応じて選択する」(或いは自動的に決定する)。
…物質界に置き換えて喩えておくとすれば、「功徳は経済的収入、罪業は借金や不足して負っている課題のようなもの」である。そこで、
1.功徳があれば:よい結果を買うようなことができる。おでかけにおいて、よいものを伴うことができる。
2.反対に罪業があれば:
(1)諦めなくてはいけないことになったり、
(2)おでかけ中に支払うことになったり、課題と向き合わないといけなくなったり、
(3)或いは積極的に仕事をして取り返さなくてはならないこともある。
このようなことで、輪廻転生=おでかけの内容が決定するようなことになっている。
●霊的階層と功徳・罪業の関係
霊的階層というものは「功徳と罪業の”総体・平均値”」として位置付くものである。そこで基本的には、高ければ功徳多く、低ければ功徳少ないことを意味する。
→ただしあくまで総体・平均値であることが単純ではない。「低くても功徳が一時的に多く得られたり」、「高くても一時的に罪を多く有する」こともあったりと、一時的な状態と総体・平均値とは一見して対応しないことがありうる。
●こうしたことの複合系としての実際
・霊的階層の高低と、現実にたった一回の人生の実現している状態とは、このように一見して対応・一致するとは全く限らない。それどころか食い違うことが多々あるのである。
・しかしまた反対に、根本的な意味においては一致しているということも事実なのである。京都人は簡単に京都を巡ることができ、反対に旅行者はときどきしか京都を巡ることはできないといったようなことと同じことが、根底にまた事実として。
これが、霊的階層の高低と、現実に一回の一生として実現している状態の関係であり、複雑系としてあるということの真意である。このことから、「一回の一生から、単純な理解のみによってその功徳・罪業の多さなどを理解することは全く不可能である」という事情があるのである。
この時点で、輪廻転生における因縁の複雑怪奇さについて、直感的にご理解いただければ幸いである。
【次回予告】「1項:輪廻転生はおでかけ=仕事・勉強兼遊び」
次回(後編その3)では、この「輪廻転生はおでかけ=仕事・勉強兼遊び」ということについて、より整理して基本原則を示します。
【ご喜捨のお願い】
社会の精神的な向上を願って、宗教者の道を歩んでいます。
本物の宗教を徹底して示すべく、厳しくともご喜捨のみで歩んでいます。
もしご縁ありましたら、以下よりご喜捨いただけましたら幸いです。
みなさまに功徳が廻り、社会の精神基盤に寄与しますように。
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