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仏教には色々あるが、色々あるのは仮設方便であり、真実には一つであるということ。
1.仏教には色々ある
(1)仏教というと一括りに語られやすいが…
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「仏教」というと、”2500年前に釈迦という一人の人物が提唱したもの”として広く知られる教えである。
そこで「仏教」というと、釈迦の名のもとに「一つしかない」とまず初めて触れる者には思われやすく、実際「仏教」ということを語られるときには”一つのもの”という前提で「一括りの中で語られる」ことが多い。
(2)仏教は色々ある
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ところが事実は、そう簡単ではない。
仏教を少し勉強すると、仏教というものが「実に多様」であるということがわかる。「原始仏教」、「部派仏教」、「大乗仏教」などがあったり、その中でもさらに分かれて「華厳宗、天台宗、真言宗…」などと分派が非常に多いということが判るものと思う。
そこで、これをどう理解するかにおいて、さらに立場も色々と別れる。
◉「仏の悟りなのだから一つであろう」ということを
・”意図して”重視するものと、
・”意図せず無注意に”その方向から見続けるもの。
◉分派を積極的に認識して、その”どれかの派のみ”に突き進んでいくもの。
またそこにも、
・”その派のみ”を絶対視するものと、
・仏道には登山道のように色んな種類があるだけだとして”他の派をも認める”もの。
挙げ出せばキリなく様々な立場があって、
そうした「多様な意見・見解がひしめいている」
というのが仏教の実情なのである。
まず、ここで押さえたいことは
「仏教には色々ある」ということである。
(3)余談:色んな仏教を単に混同するパターン
そこで色々ある中で、立場も色々あって、
それぞれに勉学・修行などに励んだりしている。
そこにおいて、よくあることの一つとして
「どれかの立場を極めて理解しよう」とする姿勢・立場である。
これは(基本手には)実に素晴らしいことと私は思う。
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剣道を究めるにおいても、まずは一つの流派を究め抜くことが重要だろうと私は思う。詳しくこれを言い換えれば、その一つの流派が絶対的かどうかは置いておいて、「剣の実力が最もつく」のは基本的には「一つの流派を究め抜く」ことであって、「あの流派この流派とふらついている」中ではなかなか剣の実力自体は向上しないものだろうと思う。
そこで仏道においても、基本的には「どれか一つの派を究め抜く」といったスタイルはよいものと私は思うものである。
そこで一定数、真面目にそのようにして、しっかり歩んでいる者を散見する。
ここで、さらに話を展開するが、
ここにまたさらに大きく二種あるという事情を私は観察する。
①片方は、
「他の派のことは本当にほとんど言わないで、その派のことだけを純粋に突き詰めるもの」である。
そして、そうした人はその派の教えについて、実に知識が豊富で、難解な教義を一応頭でそれなりに知って説明などもしている様子が見られる。わたしは、諸事情につきこのような道にいないので、こうした人を見るとき、素晴らしいなとも思うものである。
②もう片方は、
「他の派のものにも通達して、広い範囲に詳しくなるもの」である。そこで、ここにまた何通りかある。
(1)第一に、
他の派のものが自分の派の土台として必要であったり、或いは単に他の立場を知ることも重要と考えて、他の派にも通達するものである。
(2)第二に、
とにかく詳しくなる方向に働いており、あれにもこれにも詳しくなって、「派が違うことを本当に深い意味で見つめておらず」「無闇にそれらを一括して理解しようとしてしまう」ものである。
この後者が実に多いのである。
最も典型的な事例としては、「大乗仏教の信仰をしておきながら、小乗仏教の理解を同時に全て採用しよう」とするようなパターンである。
「大乗仏教」は、「小乗仏教を内包してさらに上のことを説き明かすもの」として登場したものである(※無論、上座部から見てこれを否定することもよい。ここで問題としているのは、各立場からの”論理的な”一貫性である。上座部は上座部の立場を一貫すればよい)。
例えば天動説があって、地動説に進歩した。このとき、天動説時点で理解できていたことから、そのまま引き継がれた部分と、撤回された部分があるであろう。小乗と大乗というのはこのような関係にある。
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そこで大乗の信仰をするときには、小乗については「①正しい部分」と「②撤回され置換された部分」とがある。ところが、何故か広く詳しくなる者のなかには、これを理解せずに「全てを真実や同じ議論の土台にあげて」、こうしたことに無注意で(意図したものであればよいのだが)「同時に理解しよう」とする者が後を絶たない。
これは単に理解を失敗しているということが、天動説・地動説と思えば伝わることかと思う。
今は小乗と大乗の混同を例に挙げたが、あらゆる派がある中で、いくつかの派に詳しくなってそれを無注意に全て同じ議論の土台に挙げることは似たような失敗である。
例えば、「天台宗の議論と、唯識の議論と、真言密教の議論とを”無注意に”、全て真実として理解しようとする」といったようなことを散見するが、これは理解を失敗しているのである。
このような問題を散見することを、今から話すことの余談として、予備知識がてら記したものである。
2.色んな派・各派に通達する以外に、統合的視座を探求すること
各派の難解な教義を学ぶ意義
このように、色んな派があって、そういう意味で色んな仏教があるという事実がある。
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そこでそれぞれの派では、「それぞれの特色ある教義」があり、「誰か(基本的にはその派の祖とされる人)がその突き詰めた難解な教義を何かしらの論疏(書物)として記したもの」がある。
その派を突き詰めて学ぶというときには、その「難解な論疏」を学ぶということになるわけである。
そこで、その「難解な論疏」に通達した人、しかももっと言えば”文字上で”通達した人が、その派において”突き詰めた人”として扱われるというようなことになっているのがデフォルトとなっている。(それは、そうなるのは当然と言えば当然であろう)
わたしの立場:色んな仏教を突き詰める以上のこと
これに対して、わたしが問題提起したい或いは伝えたいことは、
(それはそれとしてよいが)「それぞれの派に詳しくなることだけではいけないのではないか」、或いは「それ以外の深い立場の存在があってもよいのではないか」といったことである。
わたしは「過去世からの感覚があって、そうした立場から仏教を見ている」ということは常々話している通りであるが、どうしても「どれか一つの派を完全に突き詰める」ということに抵抗があった。否、正確には「極度に分派したどれかの派のその教義に通達することに抵抗があった」というのが正確であろうか。
(※それ故に、そうした難解に突き抜けた教義の宗派ではなく、ただ仏を念じて細かい悟りの内容は言わないというタイプの浄土宗を選んだというところもある。)
※それでは先程の「剣道を究めるにも、まずはどこか一つの派を突き詰めるのは素晴らしいこと」といったのはどこへ行ったのかという突っ込みが入りそうであるが、これに対する口実はいくらかあるにはあるが、少し堪えられたい。
もし一つ挙げるとすれば、過去世においてどれか一つに通達したことがある、といった回避をしておこうかと思う…(苦笑)。
「色んな仏教があること」に対する立場には色んなものがあると述べた。
大別すれば、
(1)「どれか一つが正しい」という方向性の立場と、
(2)それぞれ別の登山道のようなもので「究極は一つ」であるというような立場、
があるといってとりあえず差支えない。
わたしは、基本的に後者の立場のものである。
宗教がいくらかあって全てが正しいとすれば…
わたしの言い分はこうである。
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①宗教がいくらかあって、それらが全て真実であるとする。
…この場合にはいくつか派があって、それがそれぞれ正しいとする。
まずこれについて言えば、これが事実であることはもはや直観の問題であり、私はこの直観にある。ここに理屈はないので、これはただ採用するということになってしまう。
敢えていくらかものを言えば、「いくつもある宗教や派について、もし他のものを認めないというならば争いはなかなか止まない」であろう。いや、「争いが起こるかどうかで真実かどうかが決まるわけではない」ので、これは理由にはならないのであるが、私はそのような争いが起こるようなことになっているとは思わないのである。「それぞれに正しさがあり、これらを統合的に理解する視座がある」であろうと直観するのである。何か理屈を付すとすれば、理由にもなっていないがこれを付しておく。
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そこで、いくつか宗教・派があって、全てが真実であるとしよう。
②であるならば、これらが「単に食い違っているということはおかしく」、「何かの視点から見たときに全てがそれぞれに正しいという構造が事実としてある」はずである。
ちょうど山や山頂が一つ、登山道はその一つのものを結節点としていくつもあるといったように、何かの事情がそこにあって、本当に全てが真実であるというより俯瞰した目線からの真実がなくてはならないことになる。
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そこにおいては、それぞれの宗教・派には、
(ア)絶対の一つに結び付いている領域の事実と、
(イ)それぞれに相対的に仮に異なっている領域の事実、
とがあるということになっているはずなのである。
例えば一人の女性があって、
(ア)その人は身長や仕事内容といった”その人単体としての事実”をも持ちながら、
(イ)ある人から見れば娘であり、ある人から見れば女友達であり、ある人から見れば妻であり、ある人から見れば母親であったりするといったように。(究極)しかし、それらを総合したその女性という一つの事実もある。
いくつかの宗教・派があって、それが全て真実であるとするならば、こういうことになっているはずなのである。
そして、実際にそれが真実である。
(無論、それを直観として採用するかは、私から言えばそれぞれのたましいが持って出てきたものであるから、理屈のみでそれを変更せしめることは不可能である。いつか私の言うように、科学が神秘的領域を感知するに至って、私の言っているようなことが物理的に感知されれば、話は別であるがそれは今訪れるところではないであろう。)
この立場から提言すること
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そこで、そういう立場から言えば、
「これまでの各派は究極的事実まで明かしていない=そこまで明かされきっていない段階の内容」であって、「そのさらに向こうが実はあって」「それがいつか明かされなくてはならない」ということが言える。
そうであるから、「どれか一つの派に完全に通達してしまうことだけでは究極的な真実というものには至らない」。
それよりも、その先を見るためには「各立場の教義よりもその統合的視点の方を見なくてはならない」というような段階に入っていると、わたしは幼少より一貫して感じてきたのである。
時間があれば、各派にも通達しきって、その上で「統合的視点」を追求すればよいのかもしれないが、もはやこの現代においては「散らばってしまった知の流派(科学も含める)が多すぎて」、それら全てに通達しきるということは非現実的なように思われる。
そこで私は、ただ霊性の訴えるままに任せて、敢えて各派のエッセンスのみは最低限として”広く浅く触れて”、「統合的領域を探求する」ということを重視してきたものである。
会社の経営でもそういうことは有り得よう。
社長は、社内全ての動きを把握することは大会社ほど不可能となり、一部のエッセンスをかぎ分けて知って、それらを統合的に理解して社内を統制していくことになる。必要であれば、それ以上の各部署のことは、各部署の長がすればよい。
わたしはそのような心地で、
仏教・諸宗教・科学に向き合ってきたものである。
※補足)そもそも各派が究極的な真実には至っておらず、究極的真実がさらに明かされる段階にきているとは
もし鋭い突っ込みがあればと思って唐突に一つ述べておく。
これを聞いたときに「そもそも各派が究極的な真実には至っておらず、究極的真実がさらに明かされる段階にきている」といったことにそこに無理があるのではないかと思う人もいるかと思う。
無論そのようなことも織り込み済みで直観しているものであり、「では何故、各派は究極的真実に至っておらず、釈迦やキリスト等もいないのに後から究極的真実が明らかになるということが起こるのか」といったことにも真実があるものと直観して、そのように探求してきたものである。ここにもし回答があるならば、論理的一貫性においては問題を生じないのである。
「各派に通達することは必ずしも必要ではない」
そこで私が伝えたいことは、「各派に通達することが必ずしも必要か」という問題なのである。
もしいくらかの宗教・派が全て真実であるとすれば、
統合的真実があって、それは各派には明かされきっていない。
そして各派の中には(ア)絶対的な内容だけではなく、(イ)究極的視座から見たときには相対的な仮の範囲の内容があることになる。
そのような一つの派を突き詰めきって、”それだけが真実だ”と言うことに私は無理があるものと思う。
また反対に、”これだけが正しい訳ではない”、というとすれば、「その立場だけではわからない統合的領域がかえってはっきり浮かび上がってしまう」ものと思う。
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そこでわたしは、
各派を突き詰めることも段階としては素晴らしいが、
”究極的真実という観点”から言えば「必ずしも各派を突き詰める必要はない」ということを提言したいのである。
それとは反対に、「いろんな派を掘り下げて、共通する部分と相違する部分を観察して、一つであるという観点から統合的な究極的視座を探求するという段階を広げる者があってもよいのでは」ということを提言したいのである。
註)また、わたしはそのように在るものであって、各派には完全に通達していないことの理由説明でもある。
註)また、「各派に通達することばかりを賛嘆することへの提言」「各派に通達して、それを”無注意に混同する”パターンへの提言」でもある。
剣道の喩えに帰っておけば、
ある程度一つの派を学んだ先は、そこから抜けて「剣のもっと広い或いは高い道」を見て良い、そこにこそ「究極」があるものである。また仏教の話でいえば、各派が実は単に錬成されきっていない(或いはそこまで通達しきる者がまずおらず、そうしたことが伝わっていない)という事情があると言っても良い、それ故にそれだけを突き詰める以外の道があると私は考えているということである。
3.まとめ
いかがでしたでしょうか。
各派に通達することばかりが良いことのように思われるケースが多いように見かけますが、そこに提言したいと思うものです。
いくらかの宗教・派が、すべて真実であると仮定するならば、
必然的にこのような結論のみが浮かび上がります。
それぞれの宗教・派の教義には
①絶対的、統合的な領域
②相対的、仮の領域
という二つの要素が入っていることになります。
そこで、その派に特化するだけしても、
「かえって見えない究極的な範囲」があるのです。
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それとは別に、
「統合的視座」「全ての共通する部分に潜る」。
そういった理解のところに、”究極的真実が顕れてくる可能性”がある。
そういう可能性を提言してみたものです。
HPはこちらより
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