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たましい、輪廻転生について説明します(前編/序論)

「霊(たましい)」「輪廻転生」といったものを、
皆さんは事実として認識されていますか。
それとも拒否されているか、
事実と思いたいが懐疑心があるでしょうか。

「霊」というものがあるとすれば、
それは生命皆において、自分の中にあるものであり、
むしろ命の中心的なものであって、
非常に重要なものになります。
色んな事実においても、中心にいつも関わってくることになります。

実際にあるものであっても、
人が見失ってしまうようなことは沢山あります。
日常においても、後になって反省するようなこともあるでしょう。
そのように見失っている人が多い状態なのかもしれません。

そこで、今回は「霊(たましい)」について記し、
また同時に輪廻転生という基本的なことを記します。

※こちらは「前編」です。
「前編」では一般論などを説明しました。
「後編」では知るところの真意を説明します。


1.概念・語句について

1-1.概念について

“たましい”というと皆さん、どのような意味をイメージするだろうか。
人それぞれに多少の違いはあるかもしれませんが、概ねこのようであろう。

たましいの基本的なイメージ

大体このようなものとして「たましい」という概念があり、
しかもこれは世界各国に共通してある程度理解されるもので、
人類に普遍的に共有されているような「なにか」である。
あとの詳細は、多少の差異があったりもする。

「死後の世界、たましいの世界=あの世」と「生きている世界、物質世界=この世」

そして、もう一つ大体「たましい」とセットであるのは、
「死後の世、たましいの世界」みたいなものであり、
現代日本では「あの世」、古語では「幽世(かくりよ)」と呼ばれるものである。
この「死後の世、たましいの世界」のようなものも、
概ね人類に普遍的に「理解」はされるものとなっている。

そこで、たましいという概念をもう一度見直すと、

「たましい」という概念の基本的な説明

このように認識されているものであって、
ちょうど身体を車とすると、たましいは乗り手であり、
乗車中は共に機能し、乗り手が操作するようなもの、
として認識されているようなものだと、ひとまず言える。

これが、まず基本的な「たましい」の理解であろう。

1-2.語句について

そこで「たましい」と呼んでいるが、この語句について一考したい。

日本語というものは、
・古くからの日本民族の使用してきた音と、
・中国から輸入した表意文字(漢字)を、
共に使用して言語を話すので、実はこの二種のものがあって「元の意味を忘れやすい」という事情が度々見られるように思う。

今この「たましい」というものを考えるに、普通表記するときには「霊魂」「霊」「魂」などとすることが現代では比較的一般になっているものと思われるが、実はあえて「たましい」と表記してきたのは、この問題があったからである。

・「たましい」という音
そこで漢字は表意文字として後から付与されているだけのものであるから、まずは日本人として日本語を知ることが最も理解しやすいと信じて、音の「たましい」に焦点をあててこれを記そう。

「たましい」という日本語について説明すると、
「たま+し+ひ」というように分解されるものであり、

「たましい」の語源的な分解

それぞれ上記のとおりである。

そこで「たましい」=「たま(美しい)+し+日(霊的エネルギー、日/火などのようなもの)」ということになる。これが日本における「たましい」という概念の持てるイメージであり、まさに誰しも腑に落ちる語源なのではないかと思うのである。

現代人としてこれを採用しない理解のものでも、言っているところの意味は理解できるし、古代人の感覚に寄り添って理解することもできるものと思う。
これが「たましい」である。

・「霊」という表意文字
そこで、漢字ではこれに対していくらか表意文字があり、
特に「霊」「魂」といった字が現代日本では基本的に使用されている。
そこでどの字を使用してもよいのであるが、わたしは「霊」を使用することにしている。
通常は「れい」と読みたくなるかもしれないが、このような事情を知って「たましい」と読んでいただけると分かりやすいものと思っている。
(※もっと事情はあるが、割愛している)

そこで「霊=たましい」という語句で、
その意味する概念を示し、
また今後の執筆で使用することとする。


2.霊というものについての一般論

そこで霊というものについて人類には概念があったのであるが、これについては(物質的な)目に見えぬものであるが故に、もはや知られることが少なくなっている。そこで色んな説が飛び交い、或いは否定する人も多くなっている。
そこで、霊について、知るところを記すものである。

2-1.そもそも霊というもの(又は概念)が、いつから認知されるようになったか。

そもそも霊というもの(又は概念)が、いつから認知されるようになったか

まず科学的に現在判明している範囲からいえば、考古学的に知られることでは旧人辺りには埋葬が広く始まったということが言われている。これは現在の最先端の調査で知られる範囲として、それが旧人であれ原人であれそういった太古の昔に、人類が「死後について思いを馳せる」ということが起こっているものであり、こうしたことと深く関係して「霊」ということが認知されていたと推定されよう。
これは、現代に「宗教」と型付けられるようなもの以前のことであるが、逆にいえばこれが「宗教」というものの根源のようなものであって、むしろ完全に関係していることである。

そして恐らく、太古人類においては、普遍的に「霊」というようなものが認知され、それぞれに何かしらのそれに伴う行動基準や宗教的行為などがあったものと思われる。このようにして、人類に普遍的にあった概念であったであろう。

そこで、現代人であれば、これについて
・古代人の認知における考え方・勘違い/迷信のようなものとするものと、
・本当にそのようなものがあって感じていたとするものの、
両者に基本的に分かれるように思う。

わたしは後者を確信するところの者である。
古代人は「霊」を現代人と違い、結構感知していたのだろうと思う。
この辺りは、この記事を読まれたい。

古代人は、命の距離が近かったりして「感性が研ぎ澄まされやすく」、「霊」をそれなりに感知しながら暮らしていたものと思うが、やがてその感性は、理性の前に衰え始め、一部のものが感じる程度となり、「実際に感じること」よりも「理屈で考えること」が発達していき、「理屈がそれぞれに考えられて、それが付いて回るようになった」という事情があったように思う。
その結果、「霊」に関することは、基本的なことは普遍的に共有されながら、その細部についてはそれぞれの異説があるようになったものと思うのである。

それが現在に繋がっており、現在では「霊」に関する説明は、色んなものがあって一定しないということになっている。その結果混乱を生み、すべてそれぞれの迷信だろうと片づけられたりすることになったりしている。
そこで、これに対して「統合しながらなるべく真実に迫って」記そうとするものである。

2-2.霊と仏教

そこで、一点触れておきたいのが、「仏教での霊の扱い」である。
仏教の僧侶である以上、混乱を避けるためにも触れておかねばならないと思うからである。

仏教では霊を否定している、という言説が基本とされている。
といっても、いつも言うように近代以後の学問から言われることが基本となって現代は特にそのように説明されることが多いというものである。
実際には、昔の祖師方の文章を読んでいても普通に登場もする。

これは、仏教ではバラモン教の「アートマン」なる概念を明確に否定し、あるいはそこにこそ仏教の真骨頂があるという事情があって、「アートマン」がいわゆる「霊魂」のようなものであるために「仏教は霊を否定した」と主張されるものである。
(そこでさらに意見が分かれるところ、
・「輪廻の主体を否定した=輪廻転生をも否定した」という論者と、
・「輪廻転生は肯定している」という論者に分かれている。
これについては前者は無理のある主張であり、後者が真実であるということは別にも言っているし、ここでは割愛する。)

ところが、仏教は輪廻転生は肯定している。
それでは「何が」輪廻転生するのか=「輪廻転生の主体はなにか」ということが問題となるが、これについては「業」「識」「煩悩」などによって説明される。
そこで「それ自体が永遠に単独であるようなもの」は否定するということで、「霊」というものは否定するのだというように説明されることがほとんどである。

これについて、いくらか記しておこう。
・まず仏教という一括りは相当に問題がある。
仏教には分派がある。そこにおいては相当に説明が相反することがしばしばである。
その最大の分派は、部派仏教と大乗仏教というものであるが、大乗仏教側からすれば部派仏教は方便の階段であり、例えば地動説に対する天動説のようなものであり、それ自体もまた真実でありながら、実は下の段階の真反対の要素を持つ方便であるということになる。
これ以上は、この記事などを読まれたい。

そこで大乗仏教では、無常無我どころか「常楽我浄」などという説明が出たり、全く反対の説明がむしろ積極的に登場してくるものであり、仏教といっても大きくその真逆の立場があるということである。これはあたかも天動説と地動説の関係の如しである。

これを、どうやら多くの人は、仏教というものを一つのものとして理解しようとする余りに、天動説と地動説を混同して同時に理解しようとするようなことをして、この大きく相反する立場を混同してしまうようであるが、これほどまでにむしろ相反するものである。大乗仏教においてはむしろ「永遠」といったことが頻繁に説かれてくる。

このように、原始仏教/部派仏教での所説のみからの説明が、仏教の全てではない可能性もあり、しかも大乗仏教では積極的にその裏返したことこそが真実として説かれているという事情がある。

そこで、この「霊がない」という主張においては、このような分離をはっきりせずに混同しながら語られることがほとんどであるという事情はまず知られたいのである。その上で、やはり「霊は大乗仏教まで含んでも否定されるか」という議論がなされて初めて意味があるのであるが、その答えとしては「学術的意見としてはよくわからない」というのが私の回答である。

一方で宗教的意見としては、「定義や語句が異なるだけで同じことを言っている」、或いは「そもそも宗教は子育てのものであり順次開示されるところであって過去の説は絶対ではない」ということを言うところであり、「霊があるといって差し支えない」と述べるところである。
そこでこれをさらに説明する。

・語句が異なるだけ
「アートマン」が否定されたことと、「(日本語の)霊」が否定されたことは同一ではない。そもそも言語体系が異なるものであって、その語句は完全に同一とは限らない。

「業」「識」といったものは肯定し、しかもそれが変化しながら輪廻転生しているという。これがまさに「日本語の霊」というだけのこと、と基本的に述べたいところである。

「過去の行いのエネルギーや識」が=「霊」の構成要素であって、その総体がまさに霊

「過去の行いのエネルギーや識」が=「霊」の構成要素であって、その総体がまさに霊である。あたかもそれぞれの内臓が、身体の構成要素であって、その総体が身体であるように。

「霊そのもの」などはないということはあくまで「分解不能な霊」の否定であって、これはちょうど、「分解不能な身体そのもの」はなく「内臓等の総体」と指摘しているだけのことである。

「業」「識」などの構成要素として輪廻転生の主体があるものだと言うそのそれこそは、「業や識の総体としてある霊」のことであるだけに過ぎない。

「我」と思っているものは、「我でない構成要素」から成るものであり、「実は”我そのもの”などはない」というような意味で「無我」であるということも事実である一方、「この我」もまた「総体として仮にある」ということも事実であるということであって、

「無我」であることは「仮にある我」とは別の話であって、それを否定することではないのである。同じように「霊そのもの」は存在しないが、「仮にある霊」は存在すると私は説明する。語句が異なるだけのことであり、言葉遊びの範囲である。

・宗教は子育てであり、順次開示される

また、そもそも論として「宗教は子育て」であるということが真実であり、子育ての教えは年齢に応じて発展して開示されるように、宗教も衆生の成長に応じて発展して開示されるものであるといつも述べるところ。
そもそも過去の説明は、方便として真実でありながら、更に開示されゆくものと信じる。それこそが、法の真意を知る、誠実に向き合うということであると信じる。

宗教の説明は、それぞれ事実でありながら、更新もされる

アビダルマは例えば「天動説」、大乗は例えば「地動説」、そしてこうした「古典力学が更に量子力学に更新される」ように、またさらに更新されてより本当の真実というものがあるのだと信じる。

天地は決して真実を隠しているわけではなく初めから晒し続けているのであるが、理解する子供の方が進歩していくことによってより本当の真実を知っていくのである。これは実は天地からそのように開示されてもいるのである。
同じように決して釈迦仏やキリスト(弥勒菩薩)は隠していたわけではない。初めから真実そのものを全てたずさえているのであるが、子の段階に合わせたことだけが開示されていただけのことである。
法華経によれば真実の釈迦は生身ではなく、久遠に虚空にましまして、常に全てを開示している。大乗はそこから新たに開示され人々が感得したものであり、この先にまだ開示されて更新もされる。

ただし、「これまでの説はその時々の必要な階段であって、決して”偽説”ではない」ということは強く言っておかなくてはならない。
「天動説」も事実、この地球から見たときには真実でもあり、またそれにより暦を正確に計算することもできて、見る角度によっては真実である。
「地動説」は、さらにそれをも更新する角度からの真実である。
ところがさらには、こうした古典力学すらも実は仮の真実であって、量子力学というより根源的な真実から語られるようになった。

「宗教」においても同じことである。
久遠本仏或いはヤハウェが目に見えぬが天に在って、われわれはそれを知っていくだけの立場である。

ここにおいて、そもそも「業」「識」などの説明も、より深くは更新もされうる。ただし量子力学が結局、古典力学として現れるように、結局は「業」「識」といって差し支えなかったりもするのである。
このように順次開示されるということを私は知り、また弁栄日聖両師もこれを説くものである。

霊と仏教まとめ
こうした理由から、「霊」という説明をして差し支えないものとする。
言い方が異なるだけである。「業」「識」などの総体と思っていただいてもよい。「輪廻転生する主体」であり、受胎するときに伴ってくる「(仮の)主体」である。これを日本では「たまし日」といい、中国では「靈」などと表記したものである。
同じことであると説示する。


2-3.霊の一般的な理解

そこでまずは霊の一般的なイメージについて整理しておこう。
次の項で、本当のところを説明することにする。

よく考えると不明な点も出てくるのではないかと思うが、一旦全員のイメージするであろうところを、平均的に表そうとしてみた。

そもそも、なにか「あの世と、この世」のようなものがある、と想起するように思う。「たましいだけの領域と、この物質的な領域がある」と考えがちであろう。そして霊が「あの世」にあって、肉体が「この世」にあって、世界になっている。

「神(や仏)」などの「超越的な存在のようなもの」も想定されがち

そして、あの世には、もう一つ別の存在も想定されがちである。それが「神(や仏)」などの「超越的な存在のようなもの」である。

霊があると考えるとき、何故か霊だけが存在するとはあまり考えない。何かそうしたものを「統括するような超越的なもの」を想起しがちであると思う。
それが人格としてのすがたを持つか、すがたはないと考えるか等では意見がわかれるかもしれないが、また或いはさらにこの点こそが宗教によって相違あるところでもあるがひとまず、そうした「超越的なカミと言われるような何か」は基本的に想起するであろうと思われる。
そこでこれも書き加えてみるところである。

ここで、これを書き加えてみようとすると「案外よく考えたこともなかった」となるのではと思う。
この「超越的ななにか」は、「あの世」に書きこむべきか、と一瞬思うところであるが、ある意味では「あの世この世すら超越したもの」としても想起されたりすると、どこに位置するのかよく分からなくもなってくる。

また或いは「あの世かこの世か」という選択においては、無意識に「あの世」に寄って書き込もうとするということから、どちらかと言えば「あの世にあるもの」と理解されているようなことも改めて思い直されて面白いのではないかと思うのである。
そこで、正確な位置までは定めないものとして、一応「あの世寄り」に位置づけておくことにしよう。

「超越的ななにか」があり「霊的世界」「物的世界」があるという、共通イメージ

このように、「超越的ななにか」があり、「霊的世界」「物的世界」がある、ということが何となくの共通イメージとして書き出されるものと思う。

そこで次に、「霊というものはどこから生まれてきたのか」ということを次に考えると、「超越的ななにか」によって創り出されたものと理解されるように思う。またこれは物的世界の方面もそういうことになる。そうしたことを記しているのが、沢山ある各々の神話であり、必ずそうした創造から示されるようになっていたりするものである。
そこで、このことまで書き加えると、大体この図のようになるものと思われる。

あとはその詳細において、それぞれ異説があるところであろう。
そこで、これに対して、新たな現代において説明しなおすことを試みる。

後編につづく(以下)


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圓寂が、社会の精神性に寄与することを願って、さまざま深い思慮を発信し、活動することを楽しみにしながら…

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