山崎弁栄という聖者
山崎弁栄という聖者
今回は、山崎弁栄という人物を取り上げる。
わたしが敬愛する、人物の片方(もう片方:矢追日聖)である
明治大正期の浄土宗僧侶であり、「大正の釈迦」とまで呼ばれる傑僧。
岡潔という有名な数学者も、彼に帰依していたことが知られる。
湯川秀樹は、孫弟子(山本空外)に帰依していたものである。
この娑婆に登場した、間違いなく聖者の一人である。
江戸時代に生まれながら、物理学などにも霊感によって通じ、
諸宗教と科学との全てを統合した理屈を、すでに恐ろしく記している。
智慧は仏の如く、その足跡も実に清浄大慈、
その奇蹟も類まれなる人物である。
「仏の使いであった」と言い残して入滅されたが、
まさに他方世界の仏の化身であったのではないかと思う。
(今世の私は、彼に習ったことが非常に多い。
「山崎弁栄」と「矢追日聖」が私の二大両師である。
二人は生きた時代がほとんど重なっておらず、
交代するように出てきているが、
説いていることは同一である。
真理なのだから当然であるが。
それ以上の深い真相は後述するとして)
今回の稿では、山崎弁栄という人物について紹介する。
1.山崎弁栄師の略歴
山崎弁栄師の略歴(1859.2.20-1920.12.4)をひとまず記す。
・生い立ち
安政6年2月20日、千葉県柏市鷲野谷の農家に、
父嘉平、母なおの長男として生まれる。
幼名啓之介。上に姉2人、下に弟2人、妹2人がいた。
祖母てうは、若いときから信心深く、日々念仏を称えぬ日はなかった。
父嘉平もまた、打つ鉦の音は村々にとどき、いつしか念仏嘉平と呼ばれた。
・幼児期
好んで仏画を描かれ、宗教書を読まれた。
・1870年(明治3):12歳
秋の彼岸の中日、杉林から入る日を拝もうとした時、
三尊(阿弥陀仏、観世音菩薩、勢至菩薩)を想見する。
・1873年(明治6):15歳
もっぱら家業の農事を手伝うが、一方で菩提寺である浄土宗医王寺より、
仏書を借りて読み、ひそかに出家の願望を抱くようになる。
・1879年(明治12):21歳
医王寺の本寺、千葉県松戸市の「東漸寺」大谷大康老師のもとで得度。
入寺早々より「華厳哲学」や「天台四教義」「法華三大部」など難解な仏教の講義を受ける。
・1881年(明治14):23歳
東漸寺での一年余りの修行の後、東京で遊学。
伝通院大谷了胤師の「往生論註」「唯識論述記」「倶舎論」等講義、
日輪寺卍山実弁師の「原人論」「起信論」等、
翌年に至り、同師より「華厳五教章」の講義を聴講。
三千界中唯だ心眼の前に仏あるのみ
「愚衲、昔、二十三歳ばかりの時にもっぱら念仏三昧を修しぬ。身はせわしくなく、事に従うも意(こころ)は暫らくも弥陀を捨てず、道歩めども道あるを覚えず、路傍に人あれども人あるを知らず、三千界中唯だ心眼の前に仏あるのみ。」
五大皆空唯有識大の現前
「五大皆空唯有識大(地・水・火・風・空等の一切万物が空になって唯だ識だけが遍満する)といった境界が現前し、そこではただ下駄の音のみがあって」
一心法界の現前
「予、かつて華厳の『法界観門』によって“一心法界”を修す。行住坐臥に観心止まず。ある時は行くに天地万物の一切の現象は悉く一心法界の中に隠没し、宇宙を尽くして唯だ一大観念のみなるを観ず。」
などの驚くべき境涯に至っていたことを後に示されている。
華厳の「法界観」を成就したので、
「これで本堂ができた。本尊様を迎えねばならぬ」。
・1882年(明治15):24歳
医王寺(薬師堂)に籠もり、37日間(不明)念仏三昧の断食修行。
その直後より、筑波山に入山し二ヶ月に渡る念仏三昧の修行をする。
そして遂に、見仏三昧に至り、阿弥陀仏を見て仏眼を得る(悟る)。
帰寺し、東漸寺大谷大康老師より、宗戒の両脈を相承される。
・1883年(明治16)~1885年(明治18):25歳~27歳
東漸寺末寺の小庵「宗円寺」に籠もり、
途中諸事を挟みながら3年を経て、一切経を読破する。
(福田行誡上人との謁見を固辞)
福田行誡上人はこの青年沙門の行持を聞き伝えて「東から名僧がでる」とよくいっておられたが、使者を飯島宗円寺に遣して、和上の所に来謁するように求められた。
使者は若年の学僧、この管長の招請を恐悦するだろうと思えるに、
「ただ今お釈迦様に拝謁中であるから」とて老和上の招きに応じられない。
明治17年(26歳)師の遷化に伴い、100日別時念仏に籠っているとき。
「百日別時も終りに近づきし頃、またまた増上寺行誡和上下総の松戸まで来錫のことあり、和上は再び謁見を求めたけれど、入行中の由を聞いて随喜に堪えず、書簡を与えて謁見を止め、しかも謁見第一の人と歎ぜられた。」
・1886年(明治19):28歳
新寺建立のため、五香を中心に勧進の巡行を始める。
福田行誡上人は、勧進帳に寄附を要請する付言を記す。
・1888年(明治21):30歳
2月から8月にかけ、東京本所鈴木富蔵宅に滞留。
福田行誡猊下の遷化により、猊下の二十五条の大衣を贈られる。
・1894年/1895年:36/37歳
1894年12月~1895年3月、インド巡礼。
帰国後、教化がいっそう盛んになっていったそうである。
・1910年(明治43):52歳
この頃、「如来心光教会主唱者」と名乗る。
・1916年(大正5):58歳
浄土宗内で異端視の声があがりはじめていたところ、
「山下現有」猊下が実際聴いて確かめればよいかと提案し、
知恩院で講演することとなる。
知恩院(教学高等講習会)で四日間に渡り「宗祖の皮髄」と題し講演。
(※この講演録を弁栄が添削し、「宗祖の皮髄」として知恩院より出版される。)
山下現有猊下が「あとを頼みます」と仰られたことが2~3度あったそうであるが、「自分は、釈尊の御教えを皆さんにお伝えをする身でありますから。」と固辞された。
http://syouen33.blog.fc2.com/blog-entry-268.html
・1918年(大正7):60歳
時宗当麻山無量光寺第六十一世法主となる。
・1919年(大正8):61歳
光明学園(現・相模原高等学校)、無量光寺境内に開園。
・1920年(大正9):62歳
11月16日、柏崎極楽寺にて別時念仏会を指導。同月17日より病床に伏す。
高熱続き一進一退のなか、12月4日早朝、木蘭の袈裟を布団の上から掛けさせ説法。同日6時5分、念仏を称名しつつ遷化。
2.どんな人物であったか
ひとまず略歴を記したところで、
今度はその内実を一部紹介していこう。
何がそこまで偉大で、何故敬慕すべきか、その証拠を示す。
▢智慧、三昧(説いていることも示す)
すでに略歴にて十分、その智慧満足たることは伝わるものと思うが、
(・一切経(全ての経)の読破 ・華厳教学、天台教学など学了
・見仏三昧、一心法界(華厳三昧)など)
弁栄師の智慧は、近代仏教界において一人超界している。
仏教教義は当然ながら、西洋哲学・他宗教・科学にも通じ、
しかも読むことなく霊感によってもこれを知るなど。
執筆物は沢山あるが、『人生の帰趣』が最も記されている。
またその言行録も沢山あり、そのどれもが感嘆に堪えない。
・仏教の智慧は円満、加えて諸宗教/科学の統合的真相。
明治大正期にそこまでの科学知識をどのように入手していたのかと思うほど、現代人でもほとんどの人が知らないような内容を示している。
英語なども読めずとも霊感で内容を読めたそうであるし、科学書もサーっと開いただけで内容を把握されたらしい。
仏教的な智慧は、もはや仏本人といって差し支えない。
そしてこれらが矛盾なくあることの要点を、既に示している。
・宗教は子育て、新たな解釈・教説が開示される
師は、諸宗教・科学との統合的智慧まで示しているが、
これは「宗教は子育てであり、真実は順次開示される」との説による。
決して元の仏典から外れることなく、その範囲を以て、
未開示の智慧をそこから披瀝されるのである。
それをすることも使命の一つであったようである。
・三昧の具足
そして智慧がそこまであるとき、同時に三昧も具足している。
もはや仏をそのままに見て、一切の世界を見ていたそうである。
他の天体・世界のことまで説明している。
また仏と直接心中対話し、釈迦から直接聞いていたそうである。
智慧は仏そのものであり、内容を示したいが、無限である。
(WEBや書籍を貼っておくので、そちらをご覧になられたい)
・仏は一仏であり、本人は月を指す指でしかない
また、ここで趣深いことは、弁栄師は決して仏ではなく、
仏は一国土に一仏であると述べるのみであり、
自身は月(真理、仏)を指す指でしかなく、
これを頼りに、そちらを見よという。
指の方を見るなかれと戒めている。
これほどまでの仏の如き状態を示しながら、
仏は他にいると述べているのである。
ヒントになる言説があるのでこれを示す。
諸仏は、他の国土に手伝いに出現する。
そのときにはその国土の仏を立てて、自身は菩薩として出る。
(親の兄弟が、家庭に手伝いに現れるときは、叔父叔母としてある如し)
或いは、一定以上の菩薩も、他国土に手伝いに出現するらしい。
弁栄師は、これでいらっしゃるものと信じられる。
この世界では徹底的に「釈迦仏」を立てておられる。
また自身の提唱するものの祖は「聖徳太子」とも示している。
(ご本人を釈迦の化身という者もあるが、これは信者の過度な理解である)
この説示も、実に深く感嘆させられるのである。
▢足跡
智慧が驚嘆すべきものであることが私にとって、
最も重要なことであるから(判断基準としても)、
智慧から説明したが、
その実践の方面もまた清浄大慈であり、
師が仏/大菩薩であることの証拠となっている。
・貧困な求道生活
彼は決して、恵まれた環境で修行していた者ではなく、
「限りなく貧困な中」で、その修行を果たした人である。
限りなく貧困な中でこそ、信念は問われ続ける。
偽物であれば、必ずそのどこかで折れる。
これは私が自身の経験でよく知るところである。
・徹底的な自行実践
その修行は実に苛烈であり、感嘆に堪えない。
夜中も手に油を浮かべ、寝ないように火をともして修学する。
二カ月の岩屋籠りでは、近くの蕎麦屋のそば粉で暮らした。
血尿を伴いながら、日夜念仏の限りを修したらしい。
そうして見仏三昧し、仏的智慧を具足された。
・清貧な利他生活
それよりも最も重要なことは、師の利他実践の方面である。
決して営利的在り方など有るわけもなく(私も同意)、
素晴らしいまでの清貧慈悲な行き方である。
「自身が貧困でありながら、浮浪者に施す」など、
その清貧利他のエピソードは数知れない。
喜捨においても、相応しくない分については断られた。
・教化活動
自身が智慧三昧を具足されてからは、とにかく教化に回られた。
いつも何かを執筆されたり、色んな工夫をされていたそうである。
その執筆物や創作物、言行録もまた数知れず、
多くの衆生に縁を結び、伝道を果たす一生涯であられた。
▢奇跡/神秘
そして、その奇跡の数々である。
そもそも見仏三昧が奇跡の第一であるが、その奇跡/神秘の記録が沢山ある。
そのほんの一例のみを挙げてみる。
・透視(天眼)
弁栄上人は閉め切ったお部屋で、お伴に「いまに人が来るから…」。
「どうして知れますか」と尋ねると「いま向こうの松原の松陰に馬が通っている。その後ろに訪ねてくる人が歩いている」もちろんここからは松原さえも見えない。ところがしばらくすると、いわれた通りの人が訪ねてきた。
・色々お見通し
法華経講義を読みたいと思ったお伴に、それを察知した上人が「拙堂、法華経は読みたいか」と。
驚いているとその人に、それを買うためのお金を下さった。
しかし、六十銭余ったので、鰻飯と焼き鳥とを食べて帰った。
すると上人「鰻飯はうまいか」お伴「もう一年も食べませんから」。
上人「いや今日のは一杯では足るまい。焼き鳥はうまかったか」と。
・分身を出す
新潟県柏崎の極楽寺の住職の奥さんが、お念仏がうまくゆかないので、思い詰めて自殺しようとした。
上人は群馬県高崎にいて、妙観察智で身を二つに分かって、その方の枕元に立ち「仏思いの光明を胸に仏を種とせよ」と七遍いった。後にこの奥さんは仏眼が開いた。
・水死体
弁栄聖者が川べりを歩かれていた時、急に立ち止まり念仏をされたことがあった。
侍者がその理由を聞くと、「水底に死体がある」と言われた。
村人の話しによると、水死体が上がらず困っていたので、
半信半疑でその場所を探したところ、水死体が見つかったという。
そのことを聖者にお伝えすると、「そうですか。」と特に気にされていないご様子であった。
・質問をせずとも
法話のあとの質疑応答の時間になると、誰も手を挙げてもいないにも関わらず、「それについては…」と質問をせずとも知ってこれに答える有り様であった。
そして最も重要なことは、この奇跡を重視されなかった点である。
世には奇跡/神秘、現世利益を求めて宗教に入るものが多い。
そのようなことは、あまりよろしくないのである。
「いのちが完成すること」がただ一つの問題であるとして、
奇跡などはそのはしくれでしかないと言っているのである。
念仏でいのちが完成することが最大の奇跡であって、
人の思う奇跡など奇跡ではないと仰ったりしている。
これもまた師が、偽物でない証明である。
ただし教化のために、適切に奇跡を示せることも重要だといい、
適宜示されていたものであり、自在さに感嘆するのみである。
▢書画
これも奇跡の一部のようなものであるが、
師はその書画が非常に卓越し、仏のようなものである。
・仏画
仏画を多く残されているが、画家など超えるような仏画である。
画力もさることながら、仏の霊がそのまま入ったような仏画である。
人それぞれに合わせて描かれていたそうであり、
左右対称性などもわざと各人に合わせて崩されていたらしい。
単なる美術としてではなく、あくまで三昧に至るための本尊として描かれていた。
・書
書の方面も、奇跡のようなことが多い。
両手で弘法大師と法然上人の和歌を同時に円形に書かれたり、
米粒に南無阿弥陀仏と即座に書いて、大量に配布して結縁した。
(当時天皇のもとにも、届いていたそうである)
米粒に般若心経を書いたものなどは、もはや意味がわからない。
仏でもそんなことは出来ないのではないかと思う。
▢その他
・人格
いつも笑顔で応対されていたそうである。
何かを否定することはなく、違うことを聞くときには「左様で」と仰るのみであった。
その他さまざまなエピソードがあるが、本稿では割愛する。
・岡潔、湯川秀樹など
また科学者などで帰依したものも有名である。
岡潔は、弁栄師に帰依し、念仏をすることで数学をしていた。
弁栄師の孫弟子の山本空外も傑僧であったが、
湯川秀樹は山本空外に帰依し、念仏に励んで研究していた。
そのお墓は知恩院に、空外師の背面に建てられている。
2のまとめ
以上、その一部ではあるが、弁栄師の内実を紹介した。
仏/大菩薩そのものであって、人が評価するような対象ではない。
なぜこの人が、世にほとんど知られていないのか不可思議である。
(「天下の黒小僧となれ」と福田行誡猊下に言われたそうである。)
後にも記すが、「100年後に突進せよ」と度々仰っており、
認知される時代でないことを自覚されていたのであろう。
まさに明治維新(廃仏毀釈もある)という時代の変わり目、
科学・西洋文化が流入し宗教離れに入っていく入口に、
・それを過度なものとしないように、
・また後に掘り起こされる日の階段となるべく、
生まれて来られたのであろうと信じている。
「100年後までは細々と、100年後に突進」と仰っていた、
入滅から100年後とは数字通りには2020年のことである。
100周忌2020年12月4日は、奇しくも私が加行に入った、"これが宗教者としての受胎"と誓って入行した日であると、後に計算して気が付いた。因縁あるや、なしや今は知らないが、あるものと確信し、
師の仕事の引継ぎを(凡夫ながら、皆で)果たす覚悟である。
3.思うこと
そこで、最後の項として、思うことをいくらか記す。
●山崎弁栄は他方仏の化身、尊敬すべき偉大な僧侶
まず弁栄師は、偉大な僧侶であり、疑いの余地はない。
感嘆するしかない記された智慧を見るだけで、十分である。
もはや懐疑心など貫通して、真実であることを証明している。
師がいることが、わたしの確信の階段としてよく機能した。
もはや誰でも信じるようなものであると思う、
その著作を多くの人に読んでほしい。
そして、偉大な僧侶であることは確かであるが、
さらに言えば、おそらく他方仏の化身であろう。
此土の大菩薩かとも思うが、やはりそのような域ではない。
この娑婆世界に登場したどの祖師をも遥かに凌駕している。
釈迦と横に並び立っているような存在である。
他方世界の仏の化身と理解した方が、すんなり来る。
明言はしていないが、遺言はそのように見える。
「如来はいつもまします、それを知らせに来たのが弁栄である」。
弁栄師は、おそらく他方世界の仏である。
●日聖法主との結節
そして、日聖法主との結節である。
突然、出てきた矢追日聖という人物であるが、
別執筆をご覧になられたい。
わたしは両師と呼んでいるが、
人生の師として、山崎弁栄と矢追日聖という二人を
追い付きようもない心の軸である師としている。
近しい時代に生きていた実感のある中では、
この二人だけが、何の疑いも挟みえない人物である。
そして、わたしが多くを学んできた本人達である。
そこで面白いことは、この両師は矛盾しないということである。
というよりも、むしろ簡単に統合しうるといった方がよい。
私からすればではあるが、二人は真実そのものであるから、
そもそも矛盾などするわけがないことが内心では確信できるが、
実際そのとおりである。
そこでこれを記していく。
二人はほとんど重なっていない、仏教と神道
二人の生きた時期は、ほとんど重なっていない。
弁栄師(1859―1920)と日聖師(1911―1996)である。
そして、弁栄師は仏教を語り、日聖師は神道(と仏教)を説くものである。
同じことを説いている
そんな二人であるが、その内容が同じところが非常に多い。
お互いの語っていないところは補完し合っているのみである。
・オオミオヤ、宗教の一致その他
弁栄師の所説で最も重要なことは、この世界がどのように生まれてきたかということの説明、そして、そこにおいて創造主がただ一人あるという仕組みである。さらにそこから無数の世界が生まれ、各世界の創造主がいるという。そしてその創造主は、仏でもあり、神でもあるという。
全ての宗教はその創造主の子育てであり、故に別の姿で現れているだけなのだという。仏と神とは裏表の関係であり、神同士は先生がクラスごとに見せる別の姿のようなものだという。
そして、この仏かつ神である創造主を、オオミオヤと呼称するのである。
日聖師もこれと同じことをいい、さらに創造主をオオミオヤと呼ぶのである。
普通多くの宗教同士はその世界観や、本尊において相違するのであるが、両者は同一である。
しかも、これは「宗教は子育て」であるといい、それはつまり時代は親になるまで成長していっているということであるが、その成長過程にある近現代において「宗教が統合して示される時代がようやく来る」ということを両師は体現して示しているのである。これがまず、根源的に両師が同一である点である。
これを根源として、両師はそれぞれ色んなことを述べるが、これらも同一かまたは補完し合っているのみであり、両師の所説を組み合わせると広大な智慧が示されて得られる。わたしはこの作業を3年ほど行ってきたものであるが、感嘆するばかりである。
これが所説の上での一致である。
・聖徳太子を祖とする、釈迦を立てる
そして所説の一致だけではなく、
「立場においての一致(または補完)」の可能性を記す。
弁栄師は、既に述べたように、自身は月を指す指でしかないと言っており、この世界の仏は釈迦であると言って、自身の立場は中心から徹底して避けて説いている。
もう一つ面白い所説が、弁栄師の提唱すること(光明主義と命名している)の祖を「聖徳太子」としていることである。「釈迦」ではないのかということもあって、面白いところである。
そこで日聖師側のことを言うと、
自身で表で明言することは徹底して避けられて、内内で話されたり或いは著作において時々素直に明かされているところ、日聖師は「釈迦の教化上の化身」であり、「聖徳太子もその転生の一人」であると明かしている。(過去世のことを内内には話されており、他の転生も示されている。これは著作を直接訪ねて各々に悟られたい。)
・事前に使命の人が出ていると記している
日聖師の著作物にこのような所説がある。
自分たちは衆生の子育てに何度も生まれて、その時代ごとに果たす。
一つの流れ(釈迦のこと)だけが中心であるが、似た使命の人も沢山いる。
そこで、最後に衆生を成長させきるまで、階段のように積み上げていく。
今回日聖が生まれるためにも、多くの階段がかけられている。
日聖の生まれる前にも、既に似た使命の人が階段を作って交代してくれているのだ。
といった内容のことが記されてある。
これに該当しそうな人物は幾人か浮かぶが、弁栄師がその一人であると考えて双方に矛盾は生じないのだ。
・他方仏(または菩薩)と、釈迦仏
これらを全てそのまま受け止めて接合するとすれば、
日聖師は「釈迦というこの世界の親の化身」の流れで出てきたものであり、また「聖徳太子の後身」であり、
弁栄師はこれを手伝うような使命のものとして出てきたものであり、或いは「他方世界の仏・菩薩」であり、この世界の一つの仏=釈迦を敬慕する見本を示し、また”聖徳太子を祖”として示したものである。
二人とも、弥勒という後継が遠い未来にでてくるまで、衆生がまだまだ成長していく段階であり、そこに「育てに出てきた中継点」であると言っている。わたしはこれを信じることができる。というよりも、これを悟れる者へ教えて、仲間となって、衆生が成長していくために先によき一細胞として、在るものである。
●100年後に突進せよ/継がなくてはならない
・100年後に突進せよ/継がなくてはならない
既に触れたが「100年後に突進せよ」と仰っていたということである。
弁栄師在世時には、その教えは広くはならず「100年間は細々と」と仰っていたらしい。
弁栄師のことであるから、100年ほどは先のことも何かを見通していたはずであるから、この言葉は重たい。
そして、この100年後とは、入滅時をもとに計算すれば2020年以降のことを言う。まさに今そのときである。
ちなみに日聖師も1971年の執筆で50年後100年後に科学が衝突しはじめるのではないか、よくなり始める入口に立つのではないかと記しているが、2021年などを意味する。これは偶然か、必然か。
それが私に大きく関係するかは置いておいて、衆生がみなその時期に今まさに突入しはじめているということであり、分る者がこの仕事を継いでいかねばならない。分る仲間でやっていかなくてはならないと、わたしは強く信念を結ぶのである。
・今世のわたしは、彼に習ったことが非常に多い
そして私は、弁栄師に習ったことが非常に大きいものである。
私の示す内容は、弁栄師/日聖師の両師の教説が基盤となっている。
正確にはそれらが基盤にあるのではなく、真理真実そのものが基盤であって、両師はそれに合致しているからそうなるのであるが、その真理真実を知るための階段として、基盤となるほど習わせていただいた。両師に知らされてわたしはその仕事を引き継いでいるということである。
わたしを知る人は、ぜひこの両師をも知ってほしいのである。
他方の仏と、釈迦仏本人である、私は使いに過ぎない。
わたしはこの両師を、最上の師としている。
まとめ
以上、弁栄師の紹介であった。
説いていることなども紹介したいが、
これはまた別執筆として記していこう。
4.附録:わたしと弁栄師
そこで、最後に附録として、
わたしが弁栄師との縁で体験した不思議なことを記しておこうと思う。
これは偶然か、真実かはわからないと強く断る。
わたしが弁栄師のことを知ったのは恐らく19歳の頃。
大学に進学し、仏教との一致を確認するために仏教書を読み漁った頃、
何かのきっかけで弁栄師という存在を知った。
まず最初に、師が本当の師であると認識したが、
あまりに著作が難解であるため積読で放置した。
これが最初の出会いである。
その後時は経ち、25歳修行の最後の一ヶ月頃。
加行は終えて、道場に帰り最後の二カ月を過ごすのであるが、
二年間の道場で、宗教科学統合の視座を解明しきることが出来ず、
念仏というものを信じることが出来ないままであり、
(得度直前になぜか信じられなくなったという出来事があった)
このまま道場を終えて僧侶になどなってはいけないと思い悩んでいたとき、
道場の図書室にたまたま弁栄師の『人生の帰趣』を見つけた。
久々に見た書籍であったが、現行の宗では異端視に近く、これに触れてしまってよいのだろうか、それこそ念仏を信じることに反するのではないだろうか、と読むことが依然出来ない状態となってしまったが、
逆に読んでもいい理由を考えてみたところ発見し、道場に申し出て、部屋に一人籠り念仏行道に励みながらついにこれを読んだ。
そこですぐに、その重要な教説を理解し、またそれが真実であろうことを直感的に察知した。しかし、それが現行の宗とは一致しないことは分り、それを真実と認識してしまってよいものか、まずは理知的にそれを採用するとどのような真実が得られるか思案しようということにした。
そこで次に、幼児期から心中に押し込めてきた、日聖師の著作を手に取った。他のものを読んでもいい理屈を発見したので、もはや何でもありである。早速、その所説に感嘆し、また弁栄師の所説と一つであることを理解し、実に歓喜した。
それが真実であることは明白であったが、一応今の宗の形に遠慮して、あくまで理知的にこれを探ろうということにして、道場をついに卒業した。
それ以来、弁栄師の100年後に向かって突進せよ、日聖師の死後に二弾三弾の者が生まれて行間を埋めてくれるといった言葉を心の軸に、両師の所説を一つに整理し行間を埋めるべく、念仏修行にも励み、坐禅にも励み、行を積みながら、思案も深めながら、その統合に挺身した。
そうして、道場卒業半年後には骨子が出来上がり、またその半年後にはほとんど現在の状態に至ったものであった。
そこで、偶然東京に用ができたことがあったので。
これはチャンスと、前日入りして、弁栄師の足跡を訪ねることにした。
柏市のお寺や、見仏三昧した筑波山などがその目当てであった。
一つ一つ、愉しく辿っていった。
本拠とされていた善光寺についた、鍵がかかっていたが、
偶然ご住職が出て来られて、中に上げていただいた。
因縁のあるときは、このようなことがよくあるものである。
それまでの奇跡で何度か経験したので、面白くも思われた。
そこでご住職に丁寧に扱っていただき、
著作やDVDなどを無償で沢山託してくださった。
そして、筑波山の籠られていた場所をお尋ねすると、「あそこは案内がないと分からないと思う」と仰っていたのでそうかと思い後にした。何かあれば、ご連絡くださいと名刺もくださった。
そして翌日は筑波山へ向かった。
籠られた場所が二つあるのであるが、片方は明示されているし名所でもあるので簡単にわかった。
問題は、もう一つの箇所であり、見仏三昧された方の岩屋である。
とりあえずその近くとされているところ辺りを歩いた。
登山客が多いので、上りの人と下りの人がひっきりなしに交差する。
わたしは衣で登山していたが、前から来る男性に声をかけられた。
「宗派はどこですか」などの世間話をしてお別れしてすぐ、再度声をかけられた。
「ここの管理をしている団体の者です(色々と説明を受けた)。あなたを岩屋へお連れしましょう。誰かをお連れするのは二度目です。あなたは連れていくべき人です」と言われ、驚いた。
彼について登山道をしばらく歩き直す。道などあるとは思えない、茂みを指してここが入口ですという。
この人は嘘をついていて危害を加えられでもするのではないだろうかと思ったが、こちらは負けないだろうと変な自信もあってついていくことにした。
茂みを入ると、獣道のような道なき道があった。
そこをずんずん、かき分けて進んでいく、こんな道分るわけもない。
そして広い場へ出たところ、急に巨石が現れた。
ここが弁栄師の籠られた「第一の岩屋です(うろ覚え)」と仰った。
またその奥には、岩をよじ登って、護摩壇があったとされる場所までありお連れいただいた。
何が何やら感激であり、またその環境の厳しさを目の当たりにして感嘆した。
彼は突然地面をみつめ、古銭を発見した、「大正9年」とある。
これは偶然、弁栄師の入滅された年である。それをくださった。
また、あなたならここに一人で来られるでしょうといって、去っていった。
その古銭は今も常に身に付けている。
因縁あるときには、神がかったように案内人が現れたり、
いろんな手順が自然に起こってくるようであるが、
まさにこれもこの一つであった。
前日のご住職の「あそこは案内人がいないと分からない」が伏線のように頭に浮かんで、笑ってしまった。
わたしは弁栄師とそれほど因縁があるとは思っていないが、霊界からご覧になっていて案内くださったのかもしれない。偶然かもしれないが。
そして、弁栄師の「100年後に突進せよ」を考え、入滅日から100年の日を計算して、それが今であることを知るのである。
これが、わたしの弁栄師との縁である。
偶然か、真実か。
少なくとも、弁栄師のいう100年後がまさに今であることには間違いない。
そして日聖師のいう、死後にようやくはじまっていくといった時期でもある。
わたしは、それが自分の仕事であることかどうかは置いておいて、
両師のいうその時期であることだけは絶対の真実として信じるものである。
<引用>
沢山の書籍やページをかつて読んで、脳内に溜まっているため引用元不明。
私が直接まとめたいが、時間がないため外部に任せることとする。
(弁栄師の人生は、月を指す指であって、月そのものではないのだ。
一仏国土に一仏のみ、諸仏は菩薩として他浄土に手伝いに現れる。)
山崎弁栄記念館さんより引用
https://www.yamazakibennei-museum.com/bennei-about.html
長谷川画廊さんより引用
https://www.nagaragawagarou.com/exhibitions/benei-nenpu.html
法城寺弁栄庵さんより引用
https://benei7603.webnode.jp/%e8%81%96%e8%80%85%e7%94%9f%e6%b6%af/
「”大ミオヤの使者”山崎弁栄聖者」にまなぶ(最もお世話になってきたWEB)
http://syouen33.blog.fc2.com/
わたしは生涯において、営利的な著作権を放棄する。
そもそも伝道教化は完全に慈悲利他のものであって、
営利性などあるわけもないのである。
そこで執筆も、なるべく全て無償で提示したいと思っており、
出来る限りを尽くしたいと思っている。
弁栄師もそう思われているはずである。
ここはいつも難しい問題だと頭を悩ませる。
<参考>矢追日聖師の新聞の一部が掲載。もっと良いものは私に直接お問合せいただければ、いくらかご提示します。
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