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輪廻転生、因縁について(後編その1)〜六道と進化論!?輪廻はおでかけ〜

輪廻転生、因縁について(後編その1)

「前編」では、一般論を説明しました。

ところが、この従来の一般的な理解では、
現代では通用しないであろうということでした。
地獄が本当に物質的にあるというのは無理があるし、
単純すぎる「善いことをすれば楽な結果(及び反対)」
といった因縁論にも無理がある、などと言えるでしょう。

本編では現代用に、説明していきます。
実の真意が、伝わりますように。


輪廻転生の実のしくみ

輪廻転生について前編で一般論を説明した。

輪廻転生についての一般的な説示

大雑把にいえば、
「生命には六種の階層がある中を、生→死→生→死→生→と繰り返していく。なるべく成長していくことを目指す。」といったことであった。

ところが、この一般論では、
・餓鬼、地獄も物質的な感じで実在する、
・天界や地獄には膨大な寿命が設定されている、
など、現代からして無理があるということも述べた。
そこで、実のところを、現代に記そう。

1.輪廻転生はおでかけ(基盤)

輪廻転生の従来の説示には、方便が沢山交ざっている。
そこで、これを一つ一つ真意に表わしなおしていく。

最も基盤となっている理解から真意を示す。
生まれ変わりというと、一般には「生→死→生→死→生→」と繰り返していくように理解されている。むしろ根本的な理解であって、それほど問題があるわけではないが、実はまずここから方便がある。

疑問例:遠い先祖などは転生しており、もはや墓にもいないのか?

例えば、この理解だと「生まれ変わって別の生命に転じるということならば、遠い先祖などは転生しており、もはや墓にもいなかったり霊としていないのか」といった疑問が生じうる。
確かに従来の説示のままだと、そういうことになる。
ところが、これがそうではないということなのである。
ここについての理解が、輪廻転生の理解の基盤となる。

輪廻転生とは、実際には「おでかけ(留学兼旅行)のようなもの」だと喩えるとわかりやすいと思っている。
おでかけだと喩えて話を進めてみると、先程の疑問が解消する。
例えば、あるとき沖縄におでかけしたとしよう。そして帰ってきた(=死した)。
そして次に北海道におでかけした、また帰ってきた(死した)。

輪廻転生は、おでかけのようなもの

(1)一回一回のおでかけが、一回一回の一生
この一回一回のおでかけが、一回一回の一生である。
そして、一回一回のおでかけの記憶が、その霊である。(霊とは、そもそも物的なものに相対して、情報のような性質のものである)
沖縄におでかけして来れば、その記憶が蓄積する。
北海道におでかけして来れば、またその記憶が蓄積する。
このとき、沖縄の記憶が、北海道の記憶に転じるということはない。沖縄の記憶は沖縄の記憶として、北海道の記憶は北海道の記憶として、一つ一つ別個に保存されていくだろうと思うのである。これが一回一回の霊である。

(2)本体があり記憶を統合している
また半面、その各記憶は完全に別個かといえば、それもまたそうではない。さらに深くには「本体」のようなものがあって、これが統合している。
「一つの統括するフォルダ」があって、「そこに一つ一つのデータが別に保存される」ようなことになっているということである。

(注意)霊性界は物質界と陽陰真逆、霊は情報として理解する

霊というものは、物的なものと陽陰の関係にあり、一部真逆。

ここで霊性界のことを理解する上で注意しておくべきことを述べておく。
霊というものは、物的なものと陽陰の関係にあり、一部真逆のものであって、物的な理解を全てに適用すると必ず理解に破綻を起こすことになっている。男女のようなものであり、一部は真逆な要素であることをよくよく理解して、頭を切り替えて真逆の部分を適切に理解することで、理解できる。霊性界というものは、設計図のような世界のものであると前編でも喩えたが、この物的な世界と相反して、情報のような世界だと思っておくと理解しやすくなると思われる。

一旦整理
そこで、一旦整理する。

まず、霊には二段階のものがある。
①記憶統合の本体:霊の本体(本霊と呼ぶことにする)
②各一回一回の別のおでかけ:各霊/各転生(別霊と呼ぶことにする)

・記憶統合域においては、各おでかけの記憶が融合もしているし、
・半面、一回一回のおでかけの記憶は、それはそれとして分かれてもいる。
このように、
①統合的な領域の本霊が深くにあり、各転生を統合しながら、
②各回の転生霊はそれはそれとして別に存在する、
このような関係にあるということが、輪廻転生の真相なのである。

永遠に存在

霊(情報的)は永遠に存在していく、別霊は永遠に存在していく

そして、情報であるから、これは永遠に存在する。
物的なものは無常の世界であり、消滅するが、情報は永遠に存在する。
真逆の性質の世界であるということを既に断ったとおりである。
建物はいつか崩壊しても、設計図の情報そのものは永遠に存在する。
陽と陰の関係であり、陽は無限性、陰は無性を示す。
(太陽の方が永くあり、地球が短くある。太陽が無限的なエネルギーを放射し、地球はそのようなことはない等。厳密な内容は、いつか執筆の理論による)

霊は、肉体と比して永遠に存在するということがさらに言える。
おでかけは終わるが、記憶は永遠である。

・まとめ

そこで、これを加味してさらにまとめよう。
①記憶統合体のような本霊が、深い領域に統括体として在る。
②そこからデータを分裂して生成するように、分裂して一回一回の別のおでかけ(一生)を体験する。
そしてこの一回一回の記憶(霊)は、別個に永遠に存在していく。
(当然、統合的な本霊も永遠に存在していく。)
③一回一回の経験を本霊は統合して、成長していく。次の分裂には、これが反映されていく。
これが、まず概要である。

・過去霊は永遠に存在する
このことから、先祖は転生しても永遠にそれとして存在する。
そもそも、これまで存在した生命霊はすべて世界に存在するということである。
これは有限的な物質界ではあり得ないが、真逆の無限性をもつ霊界だから成立する。
・永遠にも存在するし、輪廻もする
そこで、この一回の霊が永遠に存在していくことを着目して説示したものがキリスト教の説示である。
この本霊が分裂して、次々に経験を重ねていく方面に着目して説示したものが「輪廻転生」である。
この二つは決して矛盾するところではない。霊界には別霊もすべて、しかも別々に存在する。
・輪廻転生は半分別人でもある
つまり、輪廻転生するとは、半分別人でもある。
決してそれそのものが、転じるわけではない。

★先に余談
先にいくらか余談を挟んでおく。

・仏教では識として説示
この霊の階層は、仏教では識として説明される。
この意識に階層があるといい、
・「阿頼耶識」という根底があり、
・「表層意識」がそこから現れているという。
これが、まさにこのことの従来の説示である。

・本霊も分裂増殖する
また、本霊はそれ自体が分裂して増加することができる。
フォルダをコピーして同じものを増加させられるようなものである。
これが、一般に「たましいの数が矛盾する」という問題を解消する。 


2.六道について

これが、輪廻転生の基盤のことであるが、
これを基盤構造として、さらに在ることが六道である。
今見たような本霊―別霊の分裂転生ということに、
「六道」という階層が備わっているということが次の事実である。

一般的な六道の理解:六種の階層の生命状態が実際にある

そこで一般的な六道の理解では、
六種の階層の生命状態があるような説示であった。
ところがこの理解は現代では通用しないことも説明した。
そこで、実のところを、現代に記そう。

1.「人間の心の階層」(=霊的階層)

六道ということは、実は「人間の心の階層」である。
或いは全ての生命/霊に内在している心の階層のことである。

一般には六道を生命体そのものとして理解し、その生命体を転じていくような説示の仕方であるがこれは方便であり、
真意は「六道とは霊の階層を意味する」ものである。

・人のこころにも様々なものがある

わかりやすく、人に限定して説明する。
人のこころにも様々なものがある。
とても善に満ちた心もあれば、愚劣な側面もあったりする。
天のような心もあれば、修羅の心、畜生動物的な心、
またもっと酷く地獄のような心を全て持ち合わせていたりする。
どんな悪人にも善の心もあったり、善人にも悪の心があったりする。

・様々なこころの総体としての階層

そこで各心の量に相違があり、天のような心が前面にある者もいれば、
地獄のような心が前面にあるような者もいる。
その総体として、またさらに天~地獄のような一つの状態にある。
このことを言ったものが「六道」の真意である。
「天」も人の心/階層、「畜生」も人の心/階層、「地獄」も人の心/階層を言ったものである。そこで「畜生」は単に動物を意味するものではなく=「動物的な人の心」又はそれが総体として強い「動物的な人のこと」を言う。
これが、六道の理解の基盤となる真意である。
これをさらに詳しく解説していく。

・畜生を基準として上に善道・下に悪道

畜生を基準として、上に善道・下に悪道。

そこで、畜生=動物的な心が真ん中になっている。
そこから善になれば「(修羅、)人、天の心/状態」であり、
そこから悪になれば「餓鬼、地獄の心/状態」だということである。
前者を仏教では善道といい、後者を悪道という(畜生は一応低い悪になるので、この三つで三悪道ともいう)
畜生を真ん中・スタート基準として、上下に人間のこころの階層というものがあるということを言っているのである。
※)つまり、そういう意味では人間は、動物以下のこころにも至りうるということをも意味する。例えば、子供が悪に成長しきって極悪人になったりでもすれば、子供以下のこころであるといったようなことである。
※)この、畜生が真ん中であるということが、後でさらなる意味を示す。


2.「六道」を再説明する

そこで、再度「六道」というものの真意を説明すると、このようである。

・基準値:畜生
畜生とは、人間の心のスタート地点であり、初めて人に生まれたような霊の階層ともいえる。
その真意は、動物とさほど変わらないような人間のこころ、その階層である。
(※よく人間も動物の一つであり変わらないといっている現代人がいるが、あれは反抗期のこころである。動物よりも、霊として成長した状態にあることが素直にわかり、立派にあらねばならないのである。また半面、人間は成長故に動物以下にもなりうるということでは、動物に失礼なケースもある。)

・人
そこで、畜生的階層から、人として転生を積み、立派に人らしくなった状態を「人」という。いわば「一人前」というような意味である。畜生をスタート地点の子供全体を意味するとすると、人とは「成人」を意味するといってもよい、「人に成った=人」ということである。

・天
成人したばかりでは、まだ大人としては入口である。今度は「立派な大人」になっていく。
人に対して、さらに「素晴らしい人」となった状態のことを「天」という。天とは本来、創造神のことである。創造神とはこの世界の「親」のことである。その「親に近付いた状態」ということで、これを「天」ということである。天は、天界に別世界としてあるわけではなく、あくまで霊的階層であり、素晴らしい人のことをいい、この物的世界にも普通に転生してくるものである。
(ちなみに創造神と同じまで至ると輪廻転生が終結すると、仏教以前の教えでは説示されたりもする。これは真意は、仏教の説示と同義である。仏教では、この天の中に、菩薩界があり、さらに仏があると説示する。あたかも「立派な大人」がさらに結婚をして、家庭を新たに成していくというようなこととも言え、天から菩薩となり、仏と成るものである。)

・修羅
本来天の階層にあるものが、闘争心を燃やして悪に堕ちた状態をいう。
「立派な大人」になったからといって、油断していたり、悪の心が傾けば、低い状態にも堕ちる。成人のときの心以下にも堕ちうるということである。成長=前身は、上昇ばかりではなく、下降のリスクも常に横にあるという理の現れである。
或いは、子供(畜生)が、成人に向かうときに、反抗期を起こし闘争の心を起こしたりもする、これもまた修羅の段階に近しい状態である。このように修羅という階層が、畜生と成人の間にある。

・餓鬼
反対に、畜生=子供から、悪い方向に成長してしまうと、餓鬼や地獄となるということである。
餓鬼とは、欲が暴走し、常に何かを枯渇しているような心の階層をいう。善い方向に成長した状態を「人」といい、悪い方向に成長した状態を「餓鬼」という。餓鬼も地獄も、まだ動物しか体験していない霊には、堕ちることも出来ない。餓鬼にある人は少なくはない。

・地獄
さらに悪の方面に強くなった状態を「地獄」という。
欲の暴走を超えて、人に明かな危害を加えたりすれば、この現実物質界においても、獄に収容される。また極道のような世界も、物質界に存在するがごとし。恐ろしい、悪人的状態のことをいう。「天」の真反対ということである。かえってこれも、人としての歴があってこそ堕ちうる場所でもある。

位置や自由度について

霊性界にはこのような階層で、世界が広がっている。
さらには、物質界と真逆の性質のものであって、
・距離、位置
物質界では物的距離が距離となって土地が分れているように、
霊性界では霊的距離が距離となって霊同士の位置や階層が分れている。
・自由度
物質界では物的豊かさに応じて物的自由度があるように、
霊性界では霊的豊かさに応じて霊的自由度がある。
ということになっているのである。

・天界に在れば、食べ物が欲しいと思えばぽっと出てくると説示されたり、
・餓鬼界に在れば、食べ物があっても火で消えてしまうと説示されたりしているが、
これは実は霊性界(情報開)において、その霊的豊かさが霊的自由度となっており、そのような感じになっていることを比喩したものだということなのである。

そこで、その死後は霊性界に永遠に存在していくことになるが、
この霊性界に、生前の在り方に応じた階層に入ることになるのである。
これが、六道についてのまずは基本的な説明である。

霊的階層は死後に変化もする

そこで、別霊というものは、決して固定的にあるわけではない。
ちょうど過去の記憶がそのままありながらも、意味合いが変化したり、
また日々の中で常に背景と共に変容したりもするように、
しっかり変容的に存続しているものである。
そこで失敗の記憶も、更生すれば昇華されて良い記憶に転じたりするように、
たとえ餓鬼地獄に堕ちていても、それが救われるということもある。
目連尊者の母はその死後、餓鬼道に堕ちていることを目連が発見したが、釈尊に説かれたことを修して、生天させることができたという経典があったりするが、これはそのような道理を言っている(ちなみにこれが盆供養である)。
また、別霊たちは霊的階層にありながら、生活を送っている。そこにおいて、記憶の変容に限度があるように限度はあるものの成長したりもする。そうして、統合的な本霊にも反映されつつ、次の一生に反映されたりもするのである。

3.進化論との関係

この六道というものは、生命体そのものではなく、真意は「霊的階層」であると説示した。そもそも生命体そのものと解釈すると、実は連動する問題に「進化論」がある。

現代では宇宙の歴史から生命の歴史まである程度判明してしまっている。
そこでは、原始生命のようなものから発生し、進化の過程があって、今見るような生命体があるということが判明している。これによる生命の全体像と、六道というものは相性がよろしくない。

微生物など目に見えない動物が様々あることが判明したり、或いは動物植物ともつかない生物があることが判明していたり、一括りに畜生というには動物の程度があまりに広すぎることなど、かつては知られていない事実が沢山あり、そこから見たとき「畜生」という一括には無理があるように思われたりもする。

また、畜生・人類はよく知る生命として、餓鬼・地獄・修羅などは実際に存在するのだとすれば進化論の範囲に入ってそこにおいて問題となってしまうのである。どの生命体(階層)から発生したのか、という問題に陥ってしまう。

そこで、そもそも六道は生命体そのものではなく、実は霊的階層を意味すると説示した。これにより、各階層は人の心の階層であって、進化論の問題ではなくなっり、大きく問題を解消する。

しかし、新たな問題としては、人類の心の階層としてはそれで説明されたとして、それ以前の動物についてはどうなっているのか、或いは人は動物に生まれ変わるという話はどこへいったのかといった問題が起こってくるものと思われる。また、原始生命はどの階層にあたるか、生命はどの階層から発生してくるのかという問題があり、依然として進化論の問題は完全には解消されないのである。

そこで、進化論と同時にこれを説示する必要があるということである。

畜生=人間以前の生命の総称、人間のスタート地点

結論から言うと、畜生が人間以前の生命を全て表現する。
ちょうど受精卵から出産時までの状態をすべて「胎児」と総称するが如く。
反対に言えば、原始生命(原始動物)は畜生に位置づけられるということである。
ゆえに、畜生が六道の中間位置になっているのである。

原始生命~人間未満をすべて畜生として、そこから人類がようやく登場した。

そこで、原始生命~人間未満をすべて畜生として、
そこから人類がようやく登場したということである。
そこで善にも成長するし、悪にも成長する。これが六道である。
畜生は、人間となるその基盤であり、人間における子供期間である。
よく成長すれば「人」となり、さらには「天」ともなる。
悪に成長すれば「餓鬼」となり、「地獄」にも堕ちうる。

つまり、畜生には「①動物という生命体にある期間」を第一義として、これが転じてその畜生にまだ近い状態である「②人の入口、人として子供のような期間」を第二義として、二つの意味があるということである。
大きな生命全体を見た視点からの「畜生」と、人の中を見た視点からの「畜生」があるということである。
「子供」に「胎児」と「赤子以上」を同時に含むようなものである。そもそも「天」も「創造神(天)」に近しいことから「天」と呼んだものである。
(仏教は人類を対象に説くものであるから、人の階層については細分化して示したが、畜生をさらに細分化するようなことはしていない)

そこで、餓鬼・地獄や修羅・天のようなものは生命体としてはおらず、人の心の階層を言ったものであり、進化論に矛盾はしない。ただ、原始生命~人類未満=畜生から、人類=六種の心の階層が発生しただけのことである。これが六道の全容である。

まとめ:原始動物から天に至るまで

原始動物から人類まで
そこで霊は、原始的動物から発生する。
一定以上の原始動物から、ちょうど二重螺旋を持つように、霊との結合をもつ。
原始動物から、少しずつ高等動物として、輪廻転生を重ねていき成長する。
哺乳類まで来るのにも、果てしない転生を要する。
下等生物は寿命も短く、転生も早く、短い時間でも膨大な転生をする。
そして、ついに一部が人類として転生することができる。
これが「人身受け難し」ということの真意でもある。

人間として生まれる「畜生」
人類に生まれたばかりの霊は、未だ動物のような心であり、
人間において「畜生(のよう)」と称される階層のものである。
人間界で経験を積み、成長していくことが出来る。

人を繰り返して「人」「天」へ
一度、人間までたどり着いたならば、基本的には人を繰り返す。
後述するが、その因縁に基づいて、生まれるべき生まれをする。
基本的には、高ければ良い環境となり、低ければ悪しき環境となる。
(※良い悪いは、相対的なことも大きく働き、複雑怪奇である)
そして、一人前になれば「人」となり、さらには「天」となる。

動物と人間に生まれる
・行き来する

身体は成長するとき引き戻りはしないが、こころ=霊は戻りうる。

ただし、これは基本としての話であり、実際にはもう少し複雑である。
霊的階層とは、これは心の階層の話であり、物質界とは同じでないこともある。そこで、身体は成長するとき引き戻りはしないが、こころは戻りうる。

例えば、通っていた小学校に行けば、小学校の気持ちを思い出したりもする。昔の記憶をたどったりしていると、昔の感覚になったりすることもある。また短い成長が確定していない期間で言えば、簡単に元にも戻る。
このように、心は物質的なものより変化自在のものという事情がある。

そこで「人に至れば基本的には人として繰り返す」段階となるが、
「畜生のような心にあると、動物に戻ることもある」。
そこで人間に至った当初は、むしろ動物に簡単に生まれる。
動物をしばらくして、再び人間に帰ってきたりする。
或いはどれだけ歴があっても、そこへ一時的に戻ることもある。
このように、動物と人間は行き来することがある。
(ただしあまりに低い段階にあるところから人類に突然生まれるようなことはない)

・天人とは
反対に言えば、動物と人間以外を行き来することはない。
天人に生まれるということは、霊性界で人の最上位=天界に位置付くことであり、あくまで人の中であって、また転生するときには人として最高に生まれたりすることを言うのである。

これが、六道輪廻と進化論の関係である。
「畜生がスタート地点であり」、「人類に展開して六道がある」のである。
そして、このようにしてその中を転生する。

余談発展「十界互具」:畜生にも六道あり、仏にも六道あり

十界互具:畜生にも六道あり、仏にも六道あり

ちなみに畜生にもまた、実はこの六道が既に内在している。
例えば胎児にも、大人までの遺伝情報が完備されているようなものである。
それが発現されていない段階であるというだけにすぎない。
ただしマクロのことは、ミクロでも同様にフラクタル構造のようにあったりして、その畜生の心にも善悪の幅はあり、畜生の中にも畜生なりの六道がある。畜生の中での天に至ったもの(畜生天と呼ぼうか)が、人として生まれることが出来るのである。
(或いは「畜生餓鬼」も、人として生まれるのかもしれない。いきなり悪い性の人として生まれる)

また反対に、仏にも六道のこころが内在している、善人にも悪の種はあるが閉じているだけなのである。

このように、原始的動物の段階から、仏までの全ての心を完備していることを、「仏性」「仏種」と言ったりする。
また、このようにそれぞれに六道を備えていることを、「十界互具」という。(十界とは、六道に声聞・縁覚・菩薩・仏という仏までの最高段階を加えたもの)

まとめ

以上、六道について、霊的階層として説示し、
その全容について、説示した。
これでも十分であるのであるが、仏教について説明していない。
長くなるが、最後に仏教における新たな事実について加えて、
本稿を締めることとする。最後のまとめに飛んでも構わない。

3.余談:仏教を加える

ここまでは、六道について、敢えて仏教を入れずに示した。
この六道とはインドに元からある理解であって、仏教以前からあるものであって、実は別に仏教のものということではないのである。
そこで、仏教とは、これをさらに説明し、或いはさらに上のことを言ったものなのである。

1.仏とは、阿羅漢・菩薩とは

仏教では、この六道だけではなく、さらに「仏」というものを言う。
あるいは、この「六道輪廻を停止する」ということを言う。
そこで、これはどこに位置付くかという話をする。

仏とは、引退の方面であると既に説明した。(以下)

この六道輪廻において十分に成長して、
成長しきったものが一転して停止する、これが仏である。
部活で喩えれば、引退者だと説明したとおりである。
引退者は、自分の部活をまた創設したりする。
大乗仏教によれば、仏は世界を建設する、創造主である。

喩え話:天「立派な成人」、仏「自分の家庭=世界をもつ」

天とは「立派な大人」であると述べた。
仏とはさらに一歩進んで「自分の家庭をもつ」ことと比喩しても面白い。
(これはあくまで同じ構造を持っているというだけであって、現実の話とは別である。この混同を避けられたい)
そこで、この世界において、自分の好きに生きていくことを停止するようなものである。
神とは、監督の部活創成・運動見本としての片面のすがたである。

そこで、「仏と成るには、最後の方は天界に永くあった後に、最後に仏と成る」と説かれている。これは、「立派な大人」としてあった中から、「自分の家庭をもつ」に転じるといった構造に対応する。

「仏」になるまでの途中期間を「菩薩」というが、この菩薩とは天界の中であるという。「兜率天」という天界の中に、内院と外院があって、菩薩は内院にあり、天は外院にいるという。「菩薩」とは「自分の家庭を持つ準備に入ったもの」といってもよい、それは「天界=立派な大人」の中に在るのである。そして、仏となるときには「四禅天(色天の最上)」から停止するという、つまり仏も「天界」の中にある。

さらに言えば、実は仏とは創造神の裏面であって、同一である。
監督の引退者としてのすがたが仏、部活関係者としてのすがたが神。
一つの親が世界を創成し、この世界には見本として生まれてくる。釈迦はこれである(法華経より)。
つまり、天が最上位であり、そこに菩薩も仏もある、そもそも同一の表と裏であるということである。

※余談:阿羅漢
また、最後に仏と成っていくには、停止の方面を究めていくことになる。
そこに声聞(教えを聞いて学ぶ段階)・独覚(独りでも学べる段階)という階層がある。
それを完成すれば「阿羅漢」という状態になると原始仏教では説かれているが、これは「停止の練習」を究めて一定の水準に達した状態のことを言う。大乗仏教では、実は仏となるまでは「菩薩」という状態であって、声聞・縁覚といったものはそこへの階段として方便を説示したものであるという。阿羅漢も菩薩の一部であり、停止の方面において一定水準に達した状態にあるものをいうだけのことである。死後には、菩薩界に入って、菩薩として転生を繰り返し、仏を目指すことになる(阿羅漢まで来れば、その先はそれほど遠くもない)。

※喩え
根源的な構造は、あらゆるところで一致して表れるものであるから、他のもので喩えることが可能となる。
霊と物は陽陰であり結合であるから、男女交合などに喩えると本当はさらに分かりやすい。
男女交合は、結婚以前に盛んとなり、また結婚において盛んとなり、受精によってその用を終結する。
単に天に至った者は結婚以前の状態の如く、菩薩とは結婚をした状態の如く、仏とは受精をして(=次の世界を創出し)交合の用を終えて停止した状態の如しである。(ちなみに受精を成さずレスに至った状態は、無色界と対応するといえる。)
→そもそも注意していきたいこととして。男女交合は、生命の根源であり、或いは世界の理の表出であって、卑猥などとされることに問題があり、むしろ実に本質的なことを表わすものである。神道でも、神籬や御幣などはそうしたことをよく表しており、また仏教でも勘違いされているが否定されていることではない。むしろ本質であるが故に、これを使用して説明することに利便があるので、これを使用した。

このように、六道があって、天の中に菩薩・仏がある。
それは六道を引退していく状態であり、実は創造神は本来仏である引退者の片面であって、創造神が仏より低いということでも実はなく、仏の神としての姿というのが真意である。
これが「仏」の六道における位置である。
また声聞・縁覚・菩薩・仏を足して、これを十界という。これが霊界の全容である。

2.浄土とは階層全体のこと及び最上階層のこと

もう一つ、説示しておくべきことがある。それは浄土のことである。

浄土とは
仏教では、浄土ということを言う。ここにも複数の意味があって一定しない。

大乗仏教では、仏が世界を建設すると説くが、この一つの世界を「浄土、仏国土」というものである。そこで、十方(あらゆる方角)三世(過去現在未来)に無数の仏国土=世界があるという。

往生:死後に浄土に行く
大乗仏教では、「死後に浄土に行くこと」が頻繁に説かれるようになった。
そこにも色んなものがあって、「密厳国土」「西方浄土」「霊山浄土」などがある。

最も有名な「西方浄土」とその矛盾
そこで最も有名なものは「西方浄土」であり、「阿弥陀仏」という最高仏がいて、西方のはるか向こうにその浄土があるといい、死後そこへ生まれれば安楽なまま最も順調に仏に成っていくことが出来ると説かれるものである。
そこで、西方はるか遠くに浄土があって、そこへ行くという信仰が、いわゆる浄土教として知られるところである。

ところが科学の発達により、方角は地軸との関係によって定まっているものであり、西方はるかに行けばただ地球上を回ってしまうものであり、そのようなことは有り得ないことが判明してしまっている。そこで西方を文字通りに受け取ることは、もはや絶対に許されていないものであり、どう理解するかということが問題となる。

浄土の真意:霊性界全体又は高い階層
この浄土もまた方便であるということである。

西方=日の進行の最も完成した方角、たましひの没する方角。

西方とは/はるかにとは
西方とは日の沈む方角であり、太陽進行の最も完成した状態を言う。
また日(ヒ、たましひ)の没する方角ということの比喩でもある。
西方はるかにとは、命の完成したはるか上の階層のことを言う。
西方浄土とは、霊性界の最高位のことを言うものであり、
六道階層中の最上位の仏界のことを言ったものだということである。

ただこの西方浄土ということは、十方三世無数世界と共に説示されるが、
この無数世界は実際に物質的に無数の宇宙としてある世界のことをいう。
それぞれの世界には、それぞれの霊性界がある。
また物的宇宙も根源は繋がっており、霊性界も根源は繋がっている。

そのさらに根源にある仏を毘盧遮那仏ともいい、阿弥陀仏とも久遠本仏ともいう。
そこから無数の各世界があり、各仏がいる。これが十方三世の浄土であり、十方の分身仏と言われるものであり、
釈迦はその一人である。釈迦の根源は、大日如来(毘盧遮那仏)=阿弥陀仏=久遠本仏に繋がっており、これもまた表裏一体である。

そこで、仏国土とはそれぞれ一つの世界のことであり、その物質界・霊性界の全体をもって浄土といい、この意味では全ての階層が浄土である。
地獄界~天界・仏界のすべてが仏国土であり、浄土である。
狭義では、そのうち仏界のみ/あるいは修羅界以上を言う。

浄土に行くとは、その世界の仏界に行くということであり、
それは実はすでにそのようにあることであって、
その世界が浄土であることに目覚めることを言う。
どこかに行くことをいうのではないのである。
その世界の霊性界に正しく目覚めること、
さらにその高い階層に入ることを言うものである(浄土は修羅界以上と記されていたりすることの真意はこれである)。

さらにわざわざ「西方浄土」に行くというときには、
西方浄土とは各浄土の根源にある基盤をいい、
その深奥まで覗きこむということだけのことである。

蓮に閉じ込められる=各世界の中を結局転生していくということ

西方浄土に生まれるというが、
経文には「遥か高い者以外は、蓮の中に長い時間閉じ込められる」と記してある。蓮とは仏教では一つの世界を比喩するものである。つまりこれは、結局この世界に転生し続けることを比喩したものである。

浄土に行く=目覚めることで変わる事情
ただし変わる事情がいくつかある。
・まずは、この世界が浄土であることに目覚めるということである。死後にその相を見て、実は浄土であることに目覚めることになる。
仏と縁ができる。この世界が浄土であることに気が付いて、仏の世界であることを知って、仏という高い階層と縁が出来るものである。
三悪道に堕ちない。そもそも極楽というのは、悪に堕ちないことを言うことでもあり、経文には三悪道に堕ちないと記してある。念仏などをして浄土に往生する=浄土であることに気付いて/仏と縁ができてその後の転生を行くときには、畜生以下には落ちないで済むということを言っているのである。一度浄土に往生したならば、次以降の転生においては畜生以下のような心の階層の人間とはならないで、善い影響を強く受けていくことができるのである。

そこで、実際には西方浄土に往生はせず、
仏国土であることに目覚めて、その「蓮の中=世界の中で善き転生を繰り返していって」、最も順調に高い菩薩となっていくことが出来て、やがて蓮が開いて菩薩として他方浄土に手伝いの練習に行くことも出来たり、自分の仏国土を建設することになるということである。

※注釈:一生補処の菩薩
阿弥陀仏の方面を見るということは、各世界以前のさらに根源の階層を見るということであるが、ここにおいては諸仏は、阿弥陀仏の前に菩薩という立場になる、ちょうど親も、祖父母の前では子であるようなものである。これを一生補処の菩薩という。一生補処の菩薩は自分の国土を建設して、その世界では仏としてあることになる。

これが浄土の真相である。

註1:密厳国土、五智仏(東西南北の仏)

密厳国土にいくということも全く同様である。
五智仏(東西南北の仏)というのは方便であって、
東~西は日の空間であり深奥部の仏界をいうものであり、
北は闇の空間であり各仏の各世界のことをいうものである。
これは、天動説にあった昔の人類への方便説示であり、
実は方角というものは人間側の錯覚であって、一つの太陽が中心にあって、
地球において昼と夜の両面があるに過ぎない。夜には、月が代わりに照らす。
北の(不空)成就=シッディ仏とは釈迦シッダッタ仏のことをいう。
どちらも同じ「siddhi=成就」による名前である。

註2:霊山浄土
霊山浄土も全く同様である。
死して、霊性界に切り替わることを霊山浄土に行くという。
或いは、仏界の存在に目覚めてあることを霊山浄土に行くという。
未だ目覚めぬ胎児は旅行に行っても、旅行に行ったとは言わぬ。
目覚めぬ衆生が霊性界に切り替わっても、浄土に行ったとはならぬ。
目覚めた衆生が霊性界に切り替わるとき、浄土に行く。

まとめ

以上、輪廻転生について、六道について、説示した。
その真意は「こころの階層=霊的階層」だということである。
その生前の在り方に応じて、死後はその霊的階層に入る。
また次の命が確定し、そこから分裂して出てくる。
原始動物から始まり、順次高等動物へ成長し、
人となるまで成長して、ついに人となる。
人として善悪に六道の階層が展開している。
霊的階層により、その自由度や位置が異なる。
なるべく高くなっていくように命は望んでいる。
(餓鬼からも、天に至ることができる)

従来の説示は、子育てのものであり、真実かつ方便を含むものである。
方便を含むものであっても、そのときには真実と語られる。
あとは子が自立して、その真意を知るしかない。

次回は、因縁について記す。(後編その2)

★質疑応答(随時更新)


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