輪廻転生、因縁について(後編その3)~輪廻転生は留学・出張のようなおでかけ、基本的なしくみ~
「輪廻転生と因縁」について、真意を記しています。
今回は“後編その3”で、輪廻転生における因縁の原理について整理して説明していくパートです。
ここから読んでも、読めるかとは思います。
2節.輪廻転生における因縁
(前回まではこちら)
1項:輪廻転生は“おでかけ=仕事・勉強兼遊び”のよう
前回は一旦、「導入」として、”現実に複雑系として起こっていること”を喩え話をもって提示し、”ざっくりとしたイメージ”を理解していただいた。
前回のようなことは基本の複雑に組み合わさった複雑系、基本から導出される発展形として、ここからはまず「基本原理」を整理して示したいと思う。
その最も基本を現実のことに喩えておくとわかりやすいものと思い、「輪廻転生は“(仕事・勉強兼遊びの)おでかけ”のようなもの」として説明していこうと思うものである。
※喩えの限界
喩え話というものは、似た構造にあるものを使用して、伝えたい話の構造を掴むための方便として使用するものであり、完全に同一なものではないということにいつも留意するべきである。喩え話には限界があり、喩えきれない部分や、相違する部分も出て来たりするということは前提として、喩え話はうまく使って理解されたい。
「輪廻転生というものがどのようにしてあるか」ということは既にこちらの執筆で記した。
要約して言えば、
「全てのたましいの親(あまりに広大な親であるので村の族長・祖くらいにイメージした方がわかりやすいか)のような存在=いわゆる神(=実は仏でもある)」があり、それが邑・家庭を築くが如くに、世界を作り、われわれ生命(たましい)を作る。
その世界が陽陰のようになっていて、陽的な界と、陰的な界になっており、前者が”たましいの界(霊性界、心霊界、こころの世界)”としてあり、後者が”物質現世の界(物質界、ものの世界)”としてあり、これらが”男女などのように表裏一体”としてある。
そこで”陽的である霊”は、”陰的である肉体”が生じたときに、そこに”結び付いてきて”一生を送り、陰的な肉体が滅びるときにその結合が一旦終了して、また”陽的な霊”だけとなる。あたかも、内を出て外におでかけして、日が暮れたら帰ってくるように。男女が交合して、終了したらまた分離して、また交合していくように。
そのようにして、霊が肉体に結合を繰り返して、経験を繰り返して成長していく。(成長しきったときには、結び付く用事を完全に終結して、ついに結び付かなくなる。これを仏といい、輪廻転生のしない状態である。)
これが、輪廻転生の概ねのイメージである。
霊性界と物質界の関係は、「“大人も子供も暮らす大社会(家庭など)“と”子供だけが通う小社会である学校“」などと喩えてもよいし、「男性界と女性界」と喩えて輪廻転生は”交合やデート”と喩えてもよい。
この辺りが喩えの限界である。
重要な点は、”陽的・陰的な関係”となっており、陽側から陰側に結び付くように生まれてきて、経験を繰り返して成長していくという形式になっているということである。
※これ以上のことは、完全な理論の方面からもっと複雑に理解するしかなくなってしまうので、興味のある方はそこまで待たれたい。
喩え話には限界があるから、いいように、これらの話を全て組み合わせて理解してもらうのが利口である。
(要約終わる)
そこで、輪廻転生とは、("本拠地(内)=霊界"から"外=物質界"への)「おでかけ」であると喩えとして理解していただければ、もっとも理解がスムーズになるものと思うので、これで進めることとする。
※“(宇宙原理から必然的にそうなっている)陽と陰の結び付き”という要素もここに含まれているからデート・男女交際的でもあるくらいに、そのニュアンスを薄っすら加えて理解しておいていただければ、なおよい。
「おでかけ」=学習・仕事兼遊びのおでかけ
「おでかけ」というと、皆さんはどのようなものをイメージするであろうか。一口に「おでかけ」といっても色んなものがある。仕事もおでかけ、遊びに行くのもおでかけ、スーパーへの買い物という仕事もおでかけ…。
そこで簡単に分類して、
「(A)何かを学習する・収入するようなもの」と
「(B)休息する・消費するようなもの」の、
真反対の二種に大別することができるということにしたい。
そこで、この輪廻転生で喩えるところの「おでかけ」とは、この「(A)(B)両方を有するようなおでかけ」のことを言うものとする。喩えるならば、出張(仕事兼旅行)、留学(学習兼旅行)などがこのような感じであろう。
そこで「輪廻転生のおでかけ」=「(A)学習・収入を主としながら、(B)余裕の分だけ楽しんだり消費したりもするようなおでかけ」というものをイメージされたい。そこで、これを以て説明を深めていく。
●(A)学習・収入が主である/(B)余裕の分だけ楽しみ的おでかけがある
物質界においては、仕事をしなくては、よりよく生きていくことができない。霊体としても、霊としての仕事をしないとよりよく存在していくことができない。…そこで霊の仕事・収入とは、「善業・功徳(学び等も含む)を積むこと」である。
たましいは「功徳・経験(学習)を積んで」、それによって前進して存在する仕組みになっている。
そこで、おでかけといっても、決して「(B)旅行のような方面」ばかりではなく、「(A)学習・仕事といった方面」の方があくまで主として必要となっているものであり、輪廻転生というおでかけは主としてはあくまで「(A)学習・仕事」をする時間としてあるものだということである。
その上で、それぞれのおでかけ回に許されている余裕のある分だけ、(B)旅行・楽しみ的な部分があるということである。出張・仕事による外出でも、休憩時間が多い出張や、勤務自体が比較的楽な出張、自由な時間が多い出張もあるし、そうではなく全く余裕のない回もあるであろう。
輪廻転生のおでかけもそのようになっており、「(A)学習・仕事を主として」、「(B)その回に許された余裕の分だけ楽しみ的なおでかけでもある」といったようなものだということが、第一に説明するべき基本である。
●功徳と罪業
そこで、輪廻転生とは「おでかけ」であるということであるが、「おでかけ」というものにおいて基本原理として次のことが言える。
=「収入・余裕があれば、消費ができ、負債・課題があれば、消費をしていられない」ということである。
これを輪廻転生に置き換えると、「収入・余裕」=「功徳」「負債・課題」=「罪業」ということに比することができ、先程の喩え話を変換すると「功徳があれば、よりよいおでかけができ、罪業があれば、よりよいおでかけをしていられない」といったことが基本原理としてあるということを喩えて示すことができる。
このように、「おでかけ」であるから、「収入・負債に基づいておでかけの内容が決まったりするのと同じようなことが輪廻転生というおでかけでも起こっている」ということが、第二に理解するべき基本である。
●宿命(と運命)
次に説明しておくべきことが、「宿命」ということである。
「仕事兼遊びのおでかけ」をするとして、このとき「全くの無計画」で行くかと言えば基本的にはそうではない。
その日の仕事の計画が一定あって、或いは遊びの計画も一定あって、その上で出かけていくことが基本形である。飛行機で行くようなケースの喩えをすれば、往きの便も、帰りの便も決めて行ったりする。
輪廻転生のおでかけでも、これに同じである。
「一生というおでかけの計画」は、「事前に決まった(決めた)上で出ていく」ようなことになっている。行き当たりばったりで進むものではないし、生きている中で決めていくものでもなく、「生まれてくる前に事前に決まって出てくる」ようなことになっている、ということをここで示すものである。
これを一般には「宿命」と言ったりする。
そしてこのとき同時によく言われる言葉が「運命」である。
「宿命」とは完全に決まったもの、
「運命」とは完全には決まっておらず変更可能なもの、
のことを一般的に言いあらわしており、人生は「宿命と運命の両方で」出来ているという説明が人気なように思う。
そこでよく、
(P)人生は完全に決定しているか、
(Q)宿命・運命の両方があるか、
といったことが問題となり、この問題を「自由意思の問題」と言ったりもして、長く哲学などでも取り上げられてきた問題である。
そこで、「宿命と運命:宿命で決まっている部分が主としてありながら、運命として変更可能な部分もある」という説に立ってもよいのであるが、ここでは敢えて「究極な観点から見たときには宿命しかない」=「全てが決まっている」という立場を提示してみたい。
これはわたしが考えに考え、或いは神に問いに問うて、今のところ至っている所感であって絶対の部分ではない。「決まっている部分が主である」で止まっても構わない。
例えば科学の「不確定性原理」などでは、「未来が非決定である」ということがむしろ判明している。ところが、私が色々考えたり問うてみたり神秘的な経験をしてみたりするところ、「全て決定している」と言ってよいものと思っている。
例えば今見た科学の不確定性原理の問題は「物質界目線」としては「真理」であるとはっきり言っても良い。しかしそれはあくまで「物質界目線」であって「霊性界目線」では事情が異なるというのが主たる所感である。
例えば経験して知っている事例としては、「一年以上前に健康な人が亡くなる日付がはっきり見えてその日に亡くなっていく」といった事例がある。その他色んな経験から、「少なくとも百年単位では、誰がいつの日付に生まれてきて死んでいくだとか、誰と誰が結婚して誰が生まれてくるだとかいうことは決まっている」ということは事例としてはっきりしてしまっている。
そういうことを考えたときに、
もし「運命という幅」を許してしまえば、「バタフライ効果」もあって、未来は全然異なる可能性が広がってしまうことになると思う。
登場人物は一人ではなく、世界に沢山いて、「それら全ての人間において(動物の事例は不明なので人間に限定する)生死や結婚などの詳細が決定して保たれている」ためには、「変更可能なものなど少しでもあればバタフライ効果で実現しないだろう」と思うのである。ということは反対に言えば、「全てが決定していると考えた方が、その事例の説明はつきやすい」。
仏教でも、有り得ないほど遠い先の個人レベルの小さな情報を仏陀がはっきり知っていたりすることが示されているから、全て決まっていると言った方がそこだけを言えば理屈は通るように思われる。
1.「物質界目線」と「霊性界目線」で異なる
一応、「不確定性原理」に対して答えておくと、「物質界目線」と「霊性界目線」で異なるということが考えられる。霊性界というのは、どうやら時間があってないような場であるらしく、喩えるならばゲームの中の世界と外の世界のような関係になっているものと考えられる。サイコロを振る前は、サイコロの目は確定していないが、振った後から見れば一つに確定している。このような感じで、霊性界から見れば確定しており、物質界から見れば不確定性もある、そのようなことになっているのだろうと推察する。
つまり「確定的でもあり、不確定的でもあり、その一見相反する事実が表裏一体として同時に本当に実現している」といったような状態なのだろうと思うのである。これが一点目。
2.霊性界からの視点にも二種あり
次に、霊性界から見るというときにも、「そこにもまたいくらかの視点がある」ものと推察される。(A)一つは完全者(仏=神=親)からの視点、(B)もう一つは未完全者(衆生=子)からの視点であり、「(A)完全者の視点からのみが全てが決定している状態が見えて、(B)未完全者からの視点では不確定性を含んでいるように見える」ようなことになっているのだろうと推察する。
これが二点目。
3.霊性界は半分は真反対の性質:絶対性、完全にきっちりしている
そして、もう一つ重要なポイントが、いつも言う「物質界と霊性界は半分は真反対の性質である」ということである。ここで言えることは、霊性界は物質界と真反対で絶対性を主とするものであり、きっちりしているといった特性があるということである。
故に、物質界のおでかけでは、計画はなんとなく程度の決定というところが実際の程度かと思うが、それをもって霊性界もその程度と思うのは早急であるということである。ここは真反対の特性のあるところであるから、少し切り替えてもらう必要があり、その観点からして「霊性界はきっちり」していて「人生の計画も、物質界よりは相当にきっちりしている」ということが推察されるということである。これが三点目。
今見たようなことが色々と組み合わさって、さきに述べたような結論がきっとあるのだろうというのが今時点での所感である。
結局、これも私の話でよく登場する「相反するものが、実は同時に事実として成立しており、角度によって見え方が相反する」ということになっているだけのケースなのではないかと思うところである。(この輪廻転生においても、(A)生まれ変わっているとも言えるし、(B)一つ一つのたましいは別物として永遠にあるとも言えるというようなことを示したものである。)
そのように、「宿命として全て決まっている」という観測事実も究極視点としてはありながら、「宿命だけではなく運命もあって、変更可能なものもある」という観測事実となる視点もありながら、これらが矛盾なく同時に成立しているというようなことになっているのではないだろうかというのが現時点の所感である。
これを採用していただく必要はない。「宿命と運命」説に立って、「決まっていることが主となっている」というところで止まっていただいても構わない。
どちらにせよ「輪廻転生というおでかけは事前に決まっている=宿命がある」ということがあるということではあり、これが第三に知るべき基本事実である。
★この3点を踏まえて喩えで理解する
これまでまず基礎となる三点を示した。そこで一旦、この基礎から、わかりやすい輪廻転生の基本形の例を示して、理解を深めようと思う。
そこで、まずは現実のおでかけによって基本形を喩えて、その後に輪廻転生のおでかけの基本形の例を示すことで、さらに分かりやすく示そうと思う。
<現実のおでかけ(仕事兼遊び)による例>
【設定】
⊕(収入・余裕)の方面として、貯金2000万、年収600万とする。
⊖(負債・課題)の方面として、過去に作った負債300万、Aさんに迷惑をかけた、仕事でPという課題がある、日常でQという課題(免停などのペナルティなど)があるとする。
【経過】
今回、仕事兼遊びで一定期間、外出するとする。
<⊕a>収入もあるので、仕事場はある程度恵まれた立地・場所を借りてする。
この間にも収入・学習も増加するし、失敗・課題も生まれたりすることもある。
<⊕b>主としては(A)仕事・学習を頑張っていく。
<⊕c>収入もあるのでホテルもいいところを取る。
<⊕d>PCなどの設備も、それなりにいいものを使用する。
<⊖イ>Aさんがちょうどいるので謝罪をしにいく。
<⊖ロ>今回の中で、課題Pに時間を割いて向き合う。
<⊖ハ>Qのペナルティ(罰金)などを期間中に支払う。
<⊕e>仕事のないときは観光を楽しみもする。
<⊖二>負債もあるので、この辺で…という諦めもする。
これは現実のおでかけとして喩えてみたものである。
輪廻転生に置き換えてみると、このようなことになる。
<輪廻転生の基本形の例>
【設定】
⊕功徳2000万P、毎回獲得平均功徳600万P。
⊖罪業としては、未解消の罪業300万P、Aさんに迷惑をかけた、Pという欠点(大きい嘘をつくことがある)、Qという悪業(戦で殺人をした罪があり、ペナルティがある)がある。
【経過】
<⊕a>功徳もあるので、ある程度恵まれた場所・環境・境遇に生まれてくる。
この間にも功徳の収入・学習も増加するし、罪業の失敗・課題も生まれたりすることもある。
<⊕b>主としては(A)人生の仕事・学習を頑張っていく。
<⊕c>功徳もあるので経済的に恵まれた家庭に生まれる。
<⊕d>学力などの能力も、それなりにいい状態に生まれる。
<⊖イ>Aさんがちょうど同時代に生まれているので、出会ってAさんに一方的に役立つ。
<⊖ロ>今回の中で、大きい嘘による事件に巻き込まれて大きい嘘の罪を知り、改善しなくては乗り切れないような事態を苦労して乗り越えていくようなことが起こる。
<⊖ハ>戦の殺人のペナルティとして、事故に遭い全治半年の大怪我を負う。
<⊕e>人生の楽しいような出来事もいろいろと味わう。
<⊖二>罪業の負債もあるので、何もかも上手くいくわけでもなく、ほどほどで進むことも沢山ある。
どうであろうか。
輪廻転生をおでかけとして喩えて理解すればわかりやすくなるということが伝わり、輪廻転生の基本的な仕組みがひとまず伝わったであろうか。このようなことになっているのが、輪廻転生の状態であり、今見たような事例が基本形の例である。
●霊的階層とは
そこでもう一つ解説しておく。
それが霊的階層(機根、霊格)である。
輪廻転生とは一回きりではない。むしろ、この現世で言えば、一生のようなものであり「生まれてきたときから、成長を重ねていって、終局していく」という長期間の定まったものである。
そこで、このおでかけは一回のものとしてある訳ではなく、むしろ「はじまりから終局までの成長」という一連の長い連続として在るものであり、一回の転生はその中の一回のおでかけとしてあるものである。
そもそも、たましいは、肉体で喩えれば受精卵から始まって、子供として成長し、大人として成長していくのと同じように、原始的なたましいから始まり、子供のようなたましいとして成長し、大人のたましいとして成長していき、そこにおいて輪廻転生という“学習・仕事兼遊びのおでかけ”を繰り返していくものだということである。
そこで、たましいには「成長具合・年齢」というようなものがある。
これを、仏教では「機根」といい、また最近のわかりやすい表現では「霊格」といったりする。
たましいには、それぞれ、その成長具合・転生歴があり、「霊格」というものがあるということである。
そこで先程の喩えでいえば、年収や資産のようなものが、ちょうど霊格のようなものと言えるであろうか。
基本的には「職歴が長くなればなるほど年収や資産・生活水準が上がっていく」。「転生歴が長くなるほど、一回の転生で獲得する功徳が上がり、またそもそも蓄積している功徳や、その霊的な水準のようなものが上がる」ということになる。
そこで、おでかけで考えてみるとこのようなことが言える。
一回のおでかけはあくまで”長期の中の一回”であって、それがその者の”標準値”に近いとは限らない。
一回のおでかけに頑張って、自分の標準値を遥かに超えて支出をかけたようなおでかけをしてみるということもある。その反対に、標準値・普段の水準が高い者であっても、あまり支出をしないおでかけをするようなときもあるであろう。
このように、「一回のおでかけは、その者の標準値を意味せず」、これらは「基本的には相関しながら、外れることも多々有りうる」ものであり、「両方が事実」である。
輪廻転生でも全く同様である。
一回の転生での状態はあくまで一回の状態であって、その者の標準値(=すなわち霊格)と相関したものであるとは全く限らない。まだ標準値=霊格は低いながら、一回の転生にかけて出てくる回の者もいるし、相応のおでかけをしている者もいる。反対に、標準値=霊格は高いながら、その転生ではあまりいいおでかけをしなかったり、課題に勤しむものもいたり、また相応の転生をしてくる者もいる。
このように、”標準値=霊格”と、”一回の人生”というものは、「基本的には相関もしながら、外れることも多々有りうるものであり、両方が事実となっている」ものである。
このように、一回の転生の話以上に、そもそものその生命の「標準値=霊格というものがある」ということである。
霊格は何で決まるか
では、この霊格とは何で決まるかといえば、
(ア)基本的には”歴”に相関する。
「転生歴が長ければ、年齢が上がれば資産や生活水準が上がるようにして、標準値=霊格も高い」という関係になっている。これが基本である。
もっとそもそも論を言って霊格とは何で上がるか・決まるかということを言えば、収入とは功徳の喩えと説明したから、「功徳を積むことが霊格が上がるということ」である。反対に罪業を積めば、霊格は下がる。
その功徳と罪業の合計、或いはその一時的な状態ではなく標準的な状態が霊格というものである。そして、それは基本的には転生歴と相関しているということである。
(イ)ただし一方で、成長には成長速度のバラツキなどもある。このように歴だけではない要素もここに掛け算されている。功徳を積み上げるのが早いたましいもあるし、遅いたましいもある。そうなると転生歴だけでは決まり切らないものがある。こうしたことがもっと複雑にある。
このように霊格というものは、
(ア)転生歴を基本として、
(イ)その他の要素も掛け合わさりながら、
功徳・罪業をどれだけ積んできたかの標準値として、決まっているものである。
このような「霊格」というものがあるということが、
第四に説明するべき基礎事実である。
【次回予告】
少し長くなりそうなので、一旦ここで区切ります。
次回も、「輪廻転生と因縁についての基本原理」について整理して説明する続きになります。
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