泥中に哲らか
小綺麗に生きている人間と、泥臭くやっている人間。
美しいのは後者だと、どれだけの人が本音で言うのだろう。
「君、頭でっかちやな」
就活生時代、とある企業の社長からため息交じりに投げられた言葉。それまで私なりに積み上げてきた哲学はすべて机上の空論、いわば「哲学モドキ」でしかないという事実を突きつけられた瞬間だった。
あの人は私の脆弱な部分を見抜いていたんだろう。人としての在り方を蕩々と論じておきながら、それまでナマの人間の群れと「命懸け」では関わってこなかったわけだから。
プライドを打ち砕かれた私は、奇しくもウィトゲンシュタイン等々、幾人かの哲学者らと同様に「実地の場」へ身を投じることとなった。
会社員の姿はさぞ醜かったろうと思う。汗にまみれ泥だらけの足で、這々の体で生きた日々が確かにあった。
白濁した視界に黒ぐろとした人間模様が渦巻いては消えた。
ただ、そんな中でも他者のために自己犠牲を厭わない"生けるヒーロー"は確かにいて、彼らとの出逢いが私の人間観に革命をもたらしたことは間違いない。
冷ややかなぬかるみに浸されて、その手はみな一様に蒼白だった。
泥中にて私は"ファンタジーアレルギー"になった。
組織を離れて3年が経とうとする今でも、ファンタジーものを描く気は一切起こらない。
多色の入り混ざった灰燼の沼、その内奥でひらかれる少しばかりの青白い掌…あの景色を一度でも目の当たりにした私には、現実世界から目を背けた創造だけはどうしても出来ないのである。
遁世的世界観を封印した今、一体何が描けるのだろう。
社会を露骨になぞった作品は良くも悪くも受容者を選ぶし、品のあるアイロニー?それもなんだか胡散臭い。
作者による「知者のフリ」がインクから透けて見えた時点で、作品価値は無に帰すといって良い。
描くべきは泥と真珠か。さながら肉塊と核《コア》のようだ。
この二者が画布に共存してはじめて、作品が人格として独立し、ひとりでに語り始める。そういうものなのかもしれない。