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自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

おそらく日本人であれば一度はみたことがあるであろうこのフレーズ。これは、茨木のり子の詩、「自分の感受性くらい」の一部である。なぜ、日本人であれば一度はみたことがあるかというと、中学校の教科書に出てくるからである。戦争を生き抜いた人から生み出される言葉は、茨木のり子にかかわらず、学ぶことが非常に多い。

最近、中学生の、いとこの子どもに依頼されたことがある。仕事をしている人にインタビューをして、それを新聞にする宿題があるから、インタビューを受けてくれ、というものだ。大学からお金をもらっているとはいえ、学生なんだよな、と心の中では思ったが、そんなことは彼には関係ないし、きっと彼にとって僕がポジティブに思えたから、インタビューしてみたいと思ったんだろうと慮って、インタビューを受けた。最後の質問は、「今の若い人に伝えたいことはありますか。」だったと記憶している。心は若いままだったが、年齢的に若い人からしたら、僕はもうおじさんなんやな、と客観的な自分と主観的な自分の違いを認識しつつ、それに対する僕の答えは、「自分の感性は守り続けた方がいい。誰かに共感されなくてもいい。誰とも共有しなくていい。誰とも同じである必要はない。それでも心の中で、自分が感じたことは否定しないように、それをなかったことにしないように生きると素敵な人間になれると思うよ。」と回答しておいた。どういう新聞になるか楽しみである。ただ、きっと他の新聞とは全く違う新聞になっただろうと若干憂いている。

僕は、そういう人が好きだ。大人になっても自分の感性をしっかり守り続けている人。大人になっても、自分がどう感じるかを大切に生きている人。そういう人は、とても素敵な人だと思うし、話していて楽しい。

感受性、感性とは何か。ここでは、論理と反対のもの。とする。論理とは、人と共有することができる。例えば、1+1=2は、誰もが共有するものであり、共有すべきものである。「1+1=3である」と言い出したら、現代社会では生きていけない。そういう人は、数字がわからないことになるため、買い物はできないし、料理もできないかもしれない。だから、論理というのは、人が共通理解として持つべきものであるということが言えるかもしれない。そういう意味では、情報とも違う。情報は共有される。重要かつ少人数しか知らない情報には価値がつくが、その価値というのは情報が共有されるという前提の元でしか、意味をなさない。

一方、感性は共有できない。感性というのは、自分自身が持つものであり、だから子どもに絵を描かせたら一つとして同じものはない。例えば、「象を書いてください。」と言えば、とても鼻が長い象を書く子どももいれば、足が2本の象を書く子どももいるだろう。その子にとっての象の鼻はとても長く、その子にとっての象は足が2本だったのだからそれでいい。むしろ、全員が全員、同じ象を書くようになって、絵画が論理や情報になってしまっては、アートは意味をなさないだろう。だから、アートというものは、「違う」ことの重要性を常に問いかけてくれているという見方もできるし、人間は本来、素敵な感性を持って生まれてくるものだ、と結論付けてもいいかもしれない。

ただ、大人になるにつれてこの感性を守り続けることは非常に難しい。まず第一に、感性の本質として、共有されづらい。象の絵の例のように、感性が共有されることは稀有である。ただ、日本の中学校や高校では、感性の逆スペクトラムである「同じ」であることがどうやら重要視されるようだ。僕が中学校にいた頃は、昨日の人気のあるテレビを見て、情報を共有していなければ、会話に入ることは難しかった。また、皆、同じ方向を向き、前ならえをして、同じ情報をできるだけ覚えることが重要視される。「第二次世界大戦で日本が負けた理由は教科書に書かれていること以外にあるかな?」という質問は学校ではされないだろう。むしろ、第二次世界大戦で日本が負けた理由について、教科書に書かれていることをできるだけ忠実に覚えることがよしとされる。ちなみに、日本の大学受験は、「全日本記憶大戦争」だと思っている。だからと言って、情報を記憶することを否定しているわけではない。

また、感性は価値がつきづらい。大人になり、働くようになると、社会的価値が重要視される。仕事とはそういうものである。その活動は、社会的に有益なことなのか。その価値というのは前述の通り、「共有」を前提にしているものであり、感性とは逆のスペクトラムにいる概念ということができるだろう。社会で要求されるものは価値なのだから、感性が鈍るのも無理はない。先にいうが、社会的価値が意味をなさないと言っているわけでは毛頭ないし、仕事をするなと言っているわけでもない。ただ、歳を経るにつれて、感性を育てる環境は減少するとは結論づけることができるかもしれない。

カナダはいわゆるロックダウンという状況が長らく続いた。この著者は、去年の3月からほとんど外に出ていない。去年の3月から大学がオンラインとなり、そもそも外に出る必要もなくなったし、一緒に住まわせてもらっている方の年齢を考えると、コロナを家に持ってくる危険性も否めない。最近は飲食店もやっているようだが、つい最近までテイクアウトのみの販売だった。もう、今、ステージが何なのか。何をしてよくて、何をしては行けないのかもあまりわかっていない。ここで失ったものは身体性である。身体性とは何か。「居酒屋での飲み会–ズーム飲み会=身体性」と捉えることができるだろう。あるいは、他の人と同じ空間にいることで、その空気感を楽しむことであり、あるいは、単純に「自分の体を動かし、出かけること」と捉えることもできるかもしれない。この身体性と感性は非常に強く結びついている。例えば、居酒屋での飲み会では、「あの人、綺麗な食べ方するな。」とか、「この人、意外とだらしないところあるんだな。」とか、「あの人、気が利くな。」とか、自分の感性を経験することができるが、ズーム飲み会ではそうも行かない。もちろん、感性を感じることは不可能であるとは言わないが、感性を感じれる量は極端に減る。だから身体性が失われると自分の感性が鈍る。頭で考えることが多くなり、体で感じることが減る。そう言った意味でこのコロナ禍で失ったものは大きいように見える。ただ、自分の感受性くらいは自分で守りたい。そう思う今日このごろ。

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