中村紘子『チャイコフスキー・コンクール』(毎日読書メモ(353))
実家に来ているときに、少しずつ読んでいた、中村紘子『チャイコフスキー・コンクール ピアニストが聴く現代』(中央公論社、のち中公文庫)を1ヶ月位かけて読了。
父の本棚にあった本だが、父が亡くなってからの1年間、本棚の整理をしながら発掘して拾って読んでみた本とはちょっと性質が違う。この本をわたし自身も新刊だった時代に読んでいる。1988年10月に刊行された本で、奥付に父が書いたメモによると購入したのが1988年11月。多分1988年のうちにわたしも読んだのではなかったか。
社会人になった直後で、自分の給料からプロオケの演奏会のチケットを買って聴きに行くようになっていた時代だが、この本の中で取り上げられているピアニストたちの生演奏に接したことはまだなかった。中村紘子の演奏はもっと若い時に、父に連れられて聴きに行ったと思う。1970年代から1980年代にかけて、そんなにマニアックな方向に走っていない音楽愛好家は、ピアノ協奏曲の入った演奏会というと中村紘子を選ぶことが多かったと思う。
中村紘子といえばカレーの人、というイメージも。ハウス・ザ・カリーのCM映像を今Youtubeで幾つか見てみて、懐かしさに涙ちょちょぎれ(1990年~2000年代にかけて何バージョンも流れていたようだ)。
中村紘子は1965年にショパン・コンクールで4位入賞。その後、華々しい演奏活動を続ける一方で国内外の様々なコンクールの審査員も務めている。その一つである、ソビエト連邦(当時)のチャイコフスキー国際コンクールピアノ部門の審査員を1982年と1986年に務めており、『チャイコフスキー・コンクール ピアニストが聴く現代』は1986年大会の審査の様子を書いている。文章が上手で(この本は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している)、夫の庄司薫が書いているんじゃないか疑惑を持たれたりもしたようだが、中村亡き今、真相はわからないままだ(いやまだ庄司薫は生きているけどね)。
1986年。多くの音大生が海外に出て、学び、各地のコンクールに挑戦を始めていた時代だが、まだまだ海外は敷居の高かった時代。
ホロヴィッツが「ピアニストには三種類しかいない。ユダヤ人とホモと下手糞だ」、「東洋人と女にはピアノは弾けない」と言い放ったエピソード。ホロヴィッツの真似をしては大成出来ないことは明白なのに、憧れのピアニスト、というとホロヴィッツの名前を挙げる人のなんと多いことか。逆に、最高の手本とすべき、ユニークにしてまっとうな正当さをもつリヒテル。
そのリヒテルが推しまくって第1回のチャイコフスキー・コンクールで優勝したアメリカ人ヴァン・クライバーンの悲劇。1983年のロン=ティボー、1985年のショパンコンクールで優勝して、まず日本でシンドロームとまで言われた大ブームを引き起こしたブーニン。様々なピアニストたちの名前を、初読から30年以上たってあらためて噛みしめる。
そして1ヶ月にわたるコンクールの過程。玉石混交の1次予選。去っていく「ツーリスト」たち。また、日本人奏者の多くがノンレガートで弾く傾向にあることを審査メモの形をとって語る。中村自身の師であった、井口基成、愛子兄妹のメソッドからの脱却がピアノ演奏の真髄に迫ることだと中村は書く。「タイプライターを叩くように、カタカタとハイ・フィンガーで弾く」1980年代の日本人ピアニストたち。
111人のコンテスタントのうち39人が2次予選に。日本人は岡田博美、小川典子、田中修二の3人。1次より大曲の課題曲と自由曲を最大50分。
最終選考に進むのが12人。1次予選の曲、2次予選の曲、本線で弾く協奏曲2曲(片方はチャイコフスキー)、得意不得意があり、途中ですごく審査員の心に残る人、協奏曲で本分を発揮する人、オーケストラとの共演経験の有無で、押し出しが全然違ってきたり(あわせ練習は1回しか出来ない)。中村はソ連のナタリア・トルルに強く惹かれるが、コンクール中盤から力を出し始めたのがイギリスのバリー・ダグラス。前回のチャイコフスキー・コンクールは一次予選落ちし、その後、各地のコンクールを転戦してモスクワに戻ってきた、「プロフェッショナル・ファイナリスト(ヒッチハイカーとも)」。当落線ぎりぎりのところに多くのコンテスタントが集中し、日本人コンテスタントは残念ながらファイナルに進めず。
2次予選に残っていた東洋人は日本人3人と中国人1人だけだった(コン・シャントンはファイナルに進んで7位入賞)。ヨーロッパ文化圏外に育った演奏者たちが「音楽」出来るのか、という問いが書かれ、なんというか20世紀的。現在の国際コンクールと国籍の比率が随分違ったな、と。
しかし、この時代既にコンクールが多すぎて、優勝者入賞者が多すぎて、プロ奏者の裾野があまりに広大になっていると中村は感じていた。「ツーリスト」や「ヒッチハイカー」の時代。本を読みながら、チャイコフスキー、ショパン、エリーザベトなどのWikipediaを参照していたが、列記された入賞者の名前を見てもピンとこない人も多い。それぞれ、どんな人生を歩んでいるのか。この時に優勝したバリー・ダグラスも、殆ど名前を見ることはない(検索したら、今年久々に来日してコンサートを開いたらしいが知らなかった…)。
そして、ずっと第一線にいた中村紘子が、あんなに早く鬼籍に入るとは。訃報を聞いた時の衝撃を思い出す。そして、あらためて、彼女が四十代のときに書いたこの本を読み返し、そこまでの人生で彼女が掴んできたもの、その後会得したであろうものに思いを巡らす。パイオニア、とまでは言えないにせよ、日本社会にクラシック音楽を普及させた大功績者の一人である中村紘子が思っていたこと感じていたことを改めて読んで、ジェンダーとか国籍の壁とか、随分変化したところもあるが、音楽家の本分と彼女が思っている芯の部分は基本的に変わっていないんじゃないかな、と思った。
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