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『言葉を使う動物たち』を読んで、動物たちとの会話をイメージすると、ドリトル先生のことを思い出す

『言葉を使う動物たち』(エヴァ・メイヤー著、安部恵子訳、柏書房)、朝日新聞の書評欄で取り上げられていたのをきっかけに読んでみた。
作者はオランダのアーチストで、動物哲学で博士号もとり、大学で教鞭をとっている人。この書籍は、“Dierentalen(動物の言語)”というタイトルのオランダ語の本の英語版を翻訳したもの。
言語を使って交流するのは人間だけ、と思っている人は今でも多いのだろうか。
例えば動物を飼っている(というか動物と暮らしている、という表現がより正しいのか)人は、動物ときちんと意思の疎通が出来る、と感じている人が多いのではないかと思う。
動物の種族内で、また、それ以外の種族(人間含む)との交流において、論理や文法のある「言語」を用いている動物が多いことを、この本では伝えようとしている。
巻末にきちんと引用文献が記載されており、さまざまな動物学者がさまざまな動物のコミュニケーション手段について研究していることが窺い知れる。本書は、それらの研究のエッセンスを集め、「言語」によって交流するとはどういうことか、ということを哲学的な面も含め考察している。
取り上げられる動物は類人猿、ゾウ、イヌ(オオカミやコヨーテも)、ウサギ、イルカ、鳥類、コウモリ、イカなど多岐にわたる。喉の構造が人間が音声として認識する音域の音を出すのに適していない動物もあり、音声を発することが言語で交流する訳ではないという事例も多く紹介されている。
読んでいて、何を思ったか、といえばヒュー・ロフティングの「ドリトル先生」シリーズのことである。この、1920年に最初の単行本が刊行された(邦訳も1941年に刊行されている。一番知られた井伏鱒二訳が岩波少年文庫で刊行されたのは1951年)児童書のシリーズの中で、獣医師ドリトル先生は、オウムのポリネシアの指導を受け、様々な動物の言語を習得するが、その時点で、動物の言語は音声だけで表されるものではない、ということをロフティングは語っている。ドリトル先生は、うなったり、尻尾がわりにフロックコートの裾を振ったりして、動物と語り合う。動物の種類によって当然言語は異なり、近似種の言語を辿りながら、古代の貝類と会話したり、月に住んでいる生き物(月が地球から分離して宇宙に飛んで行ったときに一緒に月に飛ばされた生き物の子孫)と話したりしている。メイヤー自身は、作中でドリトル先生について言及していないが、参考文献としてSlobodchikoff, Con “Chasing Doctor Dolittle: Learning the Language of Animals”という本が様々な章で取り上げられている。動物学の研究者でない小説家の創作は、直接この本の根拠とはならないが、様々な手段を用いて意思の疎通を行う動物たちの様子を見て、ドリトル先生のことを思い出す人も多いのではないだろうか。
本書を読んで、コミュニケートするということは、暮らしを共にしながら交流するのと、別々の暮らしを送りながら、研究的アプローチで言葉を知ろうとするのとでは違うらしいといことがわかったし、仲間の死を悼む気持ちとか、人間以外は理解しないと思われてきた過去や未来についての概念を持っている動物もいること、自殺をはかる動物がいることなど、色々なことを知ることが出来た。わたしたちが見て驚く動物の様々な習性も、背後に言語的交流がある、と知れば、理解出来ることが多いのではないかと思う。そして、人間が、自分たちの間で通じる言語をあやつっているからって、この地球上の頂点にいる生き物ではない、ということも改めて考える。

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