毎日読書メモ(190)いとしき鎌倉小説:『世界でいちばん美しい』(藤谷治)
藤谷治『世界でいちばん美しい』(小学館、現在は小学館文庫)を読んだ。ぼんやりしていて、何が「世界でいちばん美しい」のか理解しないまま読み進めていて、美しさの正体を知った時には泣いてしまう、そんな小説であった。また、作者自身が生まれ育った鎌倉~藤沢を舞台にしていて、同じ時代の鎌倉を見知って育ったわたしにとって、息苦しいまでの親近感を持って読める小説でもあった。
巻末の初出を見たら、「本書は『津々見勘太郎』(「きらら」2011年11月号~2012年8月号)、『そびえ立つ大路の松』(「きらら」2012年12月号~2013年9月号)に大幅加筆修正して、単行本として新たに構成したものになります」とある。え、この小説が別々の2つの小説を再構成することで成り立つ小説とは思えず吃驚。長い時代スパンをプロローグ以外はほぼ時系列に語っていて、津々見勘太郎は後半にしか現れない登場人物だから、この小説は後半→前半の順に書かれたのか? そびえ立つ大路の松、は、前半の物語のキーワードの一つではあるが、ちょっとわかりにくい。その前半はどういう形で完結していたのだろう。先に『世界でいちばん美しい』と聞いてしまったら絶対このタイトルの方がいい。
そして初出タイトルロール津々見勘太郎は主役ではない。主役は小説家になった僕、島崎哲と、音楽の才能に溢れる幼馴染のせった君だ。おそらく、作者の自伝的な要素が大きく反映された小説であり、作者自身の経験とか思いが、複数の登場人物の上に反映されているのだろうと想像する。そして、読者のわたしは、僕とせった君が歩く、鎌倉の街並み(観光地と接した、でも生活の息づく街並み)や、ストライキの日の江ノ電の線路などをありありと思い浮かべながら読み進める。
音楽家一家に生まれた僕は、小さいうちからピアノを習い、身体が大きくなってきてからはチェロを習い、音高に通うようになる。これは『船に乗れ!』につながる世界だが、音高時代の僕とその挫折についてはさらっとしか語られない。僕の家に遊びに来て、僕が弾いている曲を3回聴いただけで、すぐに暗譜で再現してしまったせった君は、まるで、サリエリの前に現われたモーツァルトのようだ。金持ちの家に生まれたせった君は家に防音室を作ってもらってグランドピアノを買い与えられるが、演奏家になりたいというよりは、とにかく音楽を作り出したい、という気持ちが強く、ひたすらピアノを叩き続ける。Giftedとはこういうことか、と思う。そして、他に神経が行かず、ぎりぎりで高校は卒業するものの、父の事業の跡を継ぐのに求められる能力は何一つ身につかず、父親から音楽を禁じられ、大学受験の勉強に没頭するため、という名目で借りて貰った部屋でこっそりと、ひたすら作曲活動にいそしむ。僕は音大進学をあきらめ、浪人の末進んだ大学で自分の行く道を模索する。せった君と再会し、二人でオペラ「海の怪人セーシュー」を作り、江ノ島海岸の海の家で初演するシーンは、ちょっとバブリーで、鎌倉の夏の光がほとばしるような美しい光景だった。
後半は、津々見勘太郎の挫折と妄念とバブル崩壊時代の物語、であると同時に、せった君の求道と恋と、ピアノを弾く場としてのパブレストラン「エグランティーナ」の物語。色々なボタンの小さな掛け違えが重なり、登場人物たちを大きな悲劇が襲う。それでも、鎌倉の街を照らす陽光、きらめく相模湾の美しさは変わらない。その美しさは、約20年後の今から振り返っているからこその美しさなのかもしれないが。
鎌倉の街を歩き、海を眺めたい、そう思わせてくれる小説。そこにはせった君の音楽が鳴り響いているような気がする。
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