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「街とその不確かな壁」のレビューではないレビュー

村上春樹さんの「街とその不確かな壁」を読んだ。

この作品は1980年『文學界』で発表された「街と、その不確かな壁」と名作「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を経て村上氏が書きたかったことを今の彼の言葉で新たに書き下ろした長編になる。
すでに方々であらゆるレビューを読むことが出来るので本文に沿った感想は書かない。
ここでは面白いつまらないや、玄人向けの難しい表現や他の作家を引き合いに出すことによって“それっぽく見えてしまう”堅苦しいレビューではなく、この街(小説)への進入角度について話したいと思う。

村上氏の作品を幾つも読んだ人には分かると思うが、彼の作品は没入するための進入角度が存在する。飛行機が4度でも5度でもなく3度の角度で滑走路へ向かうように適正角度が分かると途端に村上ワールドの本質が見えてくる。
読み慣れている人は最初の頁からその進入角度で入るからすんなり楽しめ、初めて村上作品を読む人はじわじわその角度の存在に気付くのだ。
角度を知るとクラッチが嚙み合ったように物語の世界に入り込んでしまう。
逆に角度を知らないまま読み進めるといつまでたっても自分の中で着陸ができない、村上春樹さんはそんな作風だと僕は感じている。

「街とその不確かな壁」を読むまで久しく僕は村上作品を読めずにいた。それまでは小説もエッセイも全て読んでいたのに、とある作品から途切れてしまった。
僕が角度を忘れてしまったのか、村上さんが角度を変えたのか、これまでのようにスルスルと読み進める事が出来なくなってしまったのだ。

だから「街とその不確かな壁」は正直不安だった。作品に不安だったのではなく、自分がきちんと進入角度を探し当てる事ができるか不安だった。
でもそんな不安は杞憂に終わる。
この作品は読んでいて懐かしくなるほど僕が1980年代から認識している“あの”角度だったからだ。
「あ、知っている村上春樹だ」となった訳だ。
どんどん村上作品を読み続けていた当時と同じ感覚を久しぶりに体感できた。すっかり忘れていた感覚だ。
当然ながら「街とその不確かな壁」は没頭できた。
鮮明に世界が脳内に広がった。
読み終えるのが惜しくなるほど。

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