混沌の街の中のベッドの中の腕の中で
バラナシに着いた瞬間「あ、この街無理かも」と音をあげた。
長い間、来たいと願っていた場所で、写真も映像も抜かりなく調べていたはずだというのに、実際目にし肌で感じるとレベルが違い、秒でカルチャーショックを受けた。
この街に、僕らの知ってるモラルは存在しない。
車道に信号は無く、車とバイクと歩行者と犬と牛が、同じ道を譲り合いながら、同時に奪い合っている。地面には、目を疑う程の量の生ゴミと、出どころ不明な水溜まりと、牛の糞が広がっている。一歩踏み出せば、大抵、何かを踏み、誰かにぶつかり、糞にたかる羽虫が鼻から目から入ってくる。空気が霞んでおり、それが大気汚染なのか、はたまた悪臭が目に見えるように具現化されてしまったのか判断が付かず、息が吸えなくなる。
そうだというのに、この街の人たちと来たら、意に介さず、その辺に座り、その辺を触った手で飯を食い、そのまま眠る。
流石に生きる力が過ぎる。
同じ動物で、同じ時代を生きて来たはずなのに、あまりに差が開いてしまった。僕はこうも軟弱に育ってしまったのだなと思い知る。
これらの光景が、断続的に目に入ってくるもので「無理かも」と弱音を吐いた次第である。
何もかも除菌しないと気が済まないほど、綺麗好きな嫁。大丈夫だろうか。
そういえば思い返すと出国前、嫁に「本当に大丈夫?行ける?」と聞かれた。それは想像しうる危険を予測し、ぶつけた質問に感じる。確かにバラナシの前評判を聞くと、それはそれは悪名高い。調べれば調べるほど不安に陥ってしまい、僕の「やっぱりやめようか」を期待して、質問したのだろう。
その気持ちは分かるが、だだ同時に、だからといって憧れた場所に訪れないのも違うと思い、嫁が出している「行きたくないオーラ」をフル無視し、強引に航空券の支払いをした。
思い出したら、振り向くのが怖くなってきた。まぁまず、間違いなく、怒られるだろう。なにせ、こんなに汚れている場所に連れて来られたのだ。街を汚した犯人が、例えおれじゃなくても、多分おれが怒られる。
恐る恐る顔をのぞくと、思いの外、輝いた目をしている。よかった、助かった。
しかし、僕の配慮が足りなかったのだろう。次第に嫁の機嫌が悪くなる。
予算とスケジュールの関係上、選んだのは安宿だった。街がこうなのはある程度の予想が立っていたので、せめてものオアシスとして、綺麗なホテルにすべきだった。全然覚えてないが、おそらく宿を手配した日の僕はご機嫌で「行けるとこまで行ったれ根性」が働いてしまっていたのだと思う。
ホテルに到着したのは23:00。入ると、受付に人はいるのに、一切の照明が消えている。暗闇の中、受付を済ませる。理由を聞いてみたいのだが、なにぶん、「なぜ照明が切れているのか」という英語が分からない。なので、黙認し、受付を済ませ、鍵を貰い、部屋に行く。机の上が見たことのないタイプの煤で汚れている。ベットのシーツは洗っているか不安になるほど色褪せている。
さて、嫁の方が見れない。先ほどから、背後に感じる圧が凄い。
勝手な話ではあるが、僕は順応している。順応というか、悪い癖で「ここまできたら逆に楽しんだれ根性」が働き、顔が綻んでしまっている。それが尚、嫌な気持ちにさせてしまったのか、取り返しがつかないほど不機嫌になっている。
彼女は「もういい」と不貞腐れ、風呂に入り始めるも、有ると聞いていたアメニティやタオルも無く、追い討ちをかけるようにお湯が出ない。
嫁は何も喋らなくなってしまった。楽しい旅はここでおしまいだろう。
ホテル側の言い分の1つでも聞き出さないと、怒りのあまり人を殺してしまいそうなので、どうにか理由を聞き出す。先ほどから戦争かと思うほど聞こえてくる花火や爆竹のせいで、街全体が停電したらしい。どうしようもない街だ。
貰ってきたバスタオルを渡しながら説明していると、また悪い癖が出る。自分の口から出ている日本語が、あまりに浮世離れしており、次第に笑けてきてしまい、口元が緩む。嫁の表情に、さらなる怒りが滲む。
さて、開き直って、おれが悪いわけじゃないので、こちらも不機嫌になる。
もちろん、僕の配慮のなさが問題なのは承知しているが、せっかく何十万も叩いて来たのに、順応できないからといってキレるのは違うだろ、と思う。まあ、そんな理由云々の前に、敵意を向けられ、反射でムカついてしまっただけなのだが。
でもまあ僕は、彼女と違い大人だ。その態度をむき出しでぶつけてしまえば、余計喧嘩腰になられるのが目に浮かぶので、これ以上の邪魔にならぬよう、苛立ちと意見を飲み込み、静かに寝支度を済ませる。
電気を消し、ベットに入り、目を瞑る。消化される前の怒りが頭の中でグルグルしている。しかし、そんなことより、外壁が薄い。爆竹と花火の音が死ぬほど聞こえている。まるで戦場、野晒しで眠っているかのような臨場感。とてもじゃないが、寝れそうもない。
ほどなくして、嫁も寝付けないのか、僕のベットに入り込み、左腕をひらき、腕を枕にしだした。さっきまで、あんなに怒っていたのに、もう機嫌が治ったようだ。勝手な人だ。「外壁薄過ぎじゃない?」話しかけてみたものの、返事がなく、別に機嫌が良くなったわけではないんだなと気づく。
はあ。当面眠れそうにないので、情報を調べながら明日の予定でも考えたい。でも左手が使えない。そっと頭を下ろそうと試みるも、そうもいかず「動かすなよ」というプレッシャーが感じ取れる。そうか、と諦め喧騒に耳を傾けていると、腕の中から寝息が聞こえ始める。
勝手がすぎる。
暇なので薄明かりで見える彼女の表情を観察して遊ぶ。寝ているのに動き続ける表情。この生き物は愉快でならない。寝息も段階的に変化していき、さながらサバンナにでもいるかのように、さまざまな動物や鳥のように見えてくる。雄大な地、その全体、サバンナ。その影が愛する嫁に重なり、微妙な気持ちになる。起こそうかな。まあでも、あんなに大変な思いをして、さらに「サバンナやめて」と起こされるなんて、流石に可哀想なので、起こさないでおく。
視線を感じ取ったのか、突然「何?」と詰められる。「何」とは困った、考えていなかった。道楽で見ていただけなので、何?に対する回答を持ち合わせていない。その返答を考えあぐねているうちに、答えないといけない時間が来てしまい、口をつくように「いや」とだけ答える。「いや」に対する言葉は何もなく、再び爆音の中に寝息が混ざり始める。今さら思いついたのだが、こちらの思惑としては、腕が鬱血しそうなので降りて欲しかっただけだった。
彼女は、昔からこういう人だ。人の気などお構いなしに主義主張を述べる。その時々の機嫌の良し悪しうんぬんより眠れないストレスを無くそうした身勝手さも、その一環なのだろう。そこに相手の都合は存在せず、それが果たされようが、果たされまいが、述べることの権利を使い尽くすかのように、ただ、述べる。
出会った頃は、自分では考えつきもしない思考回路に戸惑いがあった。この生き物には「思いやり」という考え方が備わってないのかと思うことも、多々あった。
寝て、起きてみて、嫁の機嫌もいくらか治っているようす。
この日はヒンドゥー教の重要な祭典「ディワリ」。日本でいうところの、まあ合っているか分からないが正月のようなもので、ここはその聖地。11億人もいるヒンドゥー教徒に加え、帰国者とインバウンドが一堂に会し、一晩中狂ったように騒ぐ。それで昨晩、人の気も知らず、勢い任せにイカれた爆竹音を響かせていたのかと思うと、確かに分からなくもないが、でもやっぱり分ってあげたくないほどの音量だった。
この後、ガンジス川のほとりで祈りの儀式があるのだが、会場まではそれなりの距離があり、歩いて向かうにはさすがに躊躇がある。
どうすべきか悩み、とぼとぼと歩いていると「おれのリキシャに乗れ」「いや、おれのリキシャに乗れ」と腹を空かせた獣のように群をなしたタクシードライバーたちが執拗に声をかけてくる。彼らの執拗さは想像している数倍おぞましく、いくら断ってもいくら無視をしても以後1km以上に渡りストーキングをし、耳元で「おれは絶対信頼できるから、リキシャにのれ」と伝えてくる。
しかし思うのだが、彼らは自己アピールが過ぎる。伝えるに必要最低限の日本語を使い「おれは皆んなから信頼されている」「おれほど安心できるインド人はいない」などと呟き、過去に書かれた自分宛の口コミを見せてくる。これまで、どれほどに疑われてきたのだ。
しかしこの国に来て確かに詐欺を受けた。それでいて警戒しても尚、細かく刻んだ詐欺をしてくる事を僕は知っている。どうしても、こいつらの言う「信頼できる」は、子供がつく嘘のように後ろめたさを隠しているように見えてしまう。そんなに信頼して欲しければ、逆に何も喋るなよとさえ思えてくる。
このような状況を避けるために配車アプリをインストールしていたのに、こんな時に限って、電波の調子が悪く頼れない。仕方ないので、強いて言えば信用できそうな男を、経験則からくる偏見で判断し、リキシャに乗せてもらった。
さて、計り知れないほどの渋滞を起こしている。歩いた方が早かったかもしれない。
程なくして、にわかに信じ難い出来事が起きる。走行中のリキシャに突然、20歳前後の女の子が飛び乗ってきたのだ。こちらとしては、そんな馬鹿な事があってたまるかとも思ったのだが、彼女の体捌きはあまりに慣れており、もしかして飛び乗るの方が普通なんじゃないかとさえ思うほどだった。インドに来てまで普通という感覚に振り回されている。
彼女は、面を食らった僕らの態度などお構いなしに飛び乗った勢いそのまま、さも当たり前のようにベラベラ、ベラベラと話し始めた。
正直、疑っている。
この国は、公共機関でさえ釣り銭を返してくれなかったり、最初に交渉した代金より高い額を請求されるなどの詐欺が当たり前に起きる。その受けてきた傷が簡単にインド人を信じさせてくれない。
これも何か新手の詐欺かもしれない。彼女の運賃まで払わされたり、MAX、運転手と合同でハイジャックを企てていて、新興された宗教の生贄にされる可能性まで考えられる。
警戒してた目で睨みつけるも、相変わらずこっちの気などお構いなしに、彼女は喋り続けている。
私が生まれたこの街がいかに素晴らしい街か、あの交差点の近くにあるラッシー屋には行ったか、まだ行ってないのはなぜだ、どこから来たんだ、なぜ調べてこなかったんだと、社交辞令もなしにあれよあれよと距離を詰めてくる。そんなに何個も紹介されても行ききれないないし、聞いては相槌ばかり入れる事を申しわけなく思うも、彼女には関係ないようす。
今日は何をしていたか聞かれ、日本人のブログに掲載されていたあのインドカレー屋でビリヤニを食べたよと答えると、そんなマズい店行ってないで今からこの店に行けと、達者な悪口も述べている。
ここでインドに来て初めての感覚に気が付く。
不思議なのだが、あまりに勝手な彼女の態度が、逆に信頼できる気がしてきたのだ。
生贄ではないと分かった頃、心拍数も下がり、疑念を取り払うべく「彼(運転手)の娘?」と聞いた。彼女は大口を開き笑っていた。インドでもはしたない事なのかは分からなかったが、右手で口を隠し、左手で運転手の肩を叩いた。鏡越しに見る運転手も、笑っていた。
ガンジス川の近くで彼女と共に降り、頼んでもないのに「この辺りは危険だから」といって会場まで道案内をしてくれた。彼女はこちらのお礼も受け取らず、勝手気ままに人混みに消えていった。
こういう国なのだ。
祈りの儀式をぼんやり眺めながら、ふと思う。
嫁も女の子もインド人もこの街も、全部勝手すぎるな。なんかもう、おれも勝手でいい気がしてきた。
確かにこれだけ同時多発的に出来事が発生するこの国で、いちいち他人に気を使ってる暇はない。どう足掻こうがこれ程の人口をカバーし気を遣うなんて、とてもじゃないが出来ない。自由な姿の人ばかり見てると、思ったまま感じたまま、言いたい事を言う、それが正解のように思えてきて、自分を正してみたくなる。
人混みの中、階段に腰を下ろし儀式を見つめる。振り向くと多くの人たちが手を組み、祈っている。
この祭りの混乱に紛れて、嫁にこちらの主義主張してみようと決意する。彼女の機嫌はまだ治りきっていない。僕の1番の願いは、機嫌を直してもらうことだ。
「あのさ、あんな事で怒らないでよ」と伝える。言ってから思う。おれも苛立っていたのか、前置きもなく話し始めたにしては言い方に棘があったかもしれない。解決を急ぎ過ぎた。嫁の顔色と出方をうかがう。
すると、ここでまさかの「怒ってないから」と返ってくる。なんだと、それはあんまりだ。あれほど怒り散らかしておいて、怒ってないとは何事だ。要は怒ってはいるけど、怒ったと思われる事が面倒くさいから、怒ってないと主張しているだけだろ。それは流石に勝手すぎる。自分の主張を押し殺すダメージは追わず、ただその漏れ出た怒りでダメージを与えるなんて、そんなのはずるい。感情的になるなら、せめて惨めに怒ってくれないと、こっちもやるせない。
しかし、負けじと主張を続け、理不尽に対抗してみたはいいものの、正直慣れない事をしたと後悔している。
これまでは文句は言えど、大抵の場合、状況が変化していいほどの覚悟はなく、ただ文句を言っていたのだが、今回の場合、状況の変化を望んで主張をしている。これらは口にするだけでエネルギーを消費する。ただぼやいている時とは全く違う。周りがそうならと大きく出てみたが、やはり意見を通そうとする意思は容易いものじゃない。疲れる。向いていないんだと思う。
寛容さのアピールをしたいわけでもなんでもないが、僕は大概のことで怒らない。怒りは面倒臭い。それは相手の意見の尊重といえば聞こえが良いが、でも実際はそうではなく、自分の意見の封鎖に近い。対立してまで勝ち取りたい立場もプライドもないし、相手を変える労力を割くくらいなら、自分を変えて自己完結してしまえば、いちいち波風を立てずに済むので、ずっと楽でいれる。
自分が嫌なことを人にするな、それを叩き込まれて育ったからか、僕としては怒られるのが嫌いというか疲れるので、人に怒りをぶつける事自体が出来なくなっていき、そもそも自分の主義主張をしなくなっていったのだ。
しかし一度栓が抜けた本音は、自分の意思とは関係なく、とめどなく溢れてくる。
2人の喧嘩はもはや、正当性を奪い合うものなんかじゃなく、ただ相手に負けないためだけの、不毛な喧嘩に発展している。
何してんだろおれ、という客観視が一瞬入るものの、ムキになってしまい「いや怒ってはいたじゃん、怒ってないは嘘じゃん」という揚げ足をとりにかかる。それに対し「うるさい」と返ってくる。そう来たか。心の中では、浮かれて馬鹿騒ぎしてるこいつらの方が遥かにうるさいと思っていたのだが、確かに、言葉尻を掴んで逃がさないようにする僕のやり口は、うるさいよなと気付く。「それは確かに」と返してみると、さて、なぜだろう。互いの機嫌が良くなってくる。
不思議なものでこの瞬間から、不快でしかなかったこの街の人、犬、牛、空気、匂い、音、糞、全てが、これはこれでいい物に思えて来てしまっている。
身勝手な主義主張をしてみて思う。
確かに今までは、あらかじめ波風を避けようと主義主張自体を躊躇していたが、その意見に対しどう思うか感じるかは、相手の勝手だよな、というひどく当たり前の事を思い出す。
そもそも相手がどう思うかを考慮して言う意見には、相手の心の存在を認めていない傲慢さと、また同時に、それをコントロールできるという自惚れも孕んでいることにも気が付く。
だったら、こういうのはどうか。はなから、どう思われようとも気のまま思いのまま主義主張を伝え、それを互いが判断し合い、その上で選択するというのは。その方が分かりやすく、いずれ互いの心を尊重しあえるそれこそ健全な関係になれるのではないか。これだけごねごね考えてやっと気付くが、嫁はこんなこと考えて吠えていたのかもしれない。
まぁこんな美学を唱えたところで、日本に帰って1ヶ月もすれば消え去り、結局またごねごね考え始めてしまうのだろうが、いっときこれで行こうと思う。
散々自由をして今更ではあるが、海外旅行のような緊張状態ともなると、苛立たないわけもない。僕の配慮のなさで苛立たせておきながら、こちらも負けじと意地を張り、嫌らしい態度をぶつけた。で、思ったのだが、好き勝手言えた側面には「この人なら言っても大丈夫」というある種の信頼や愛情のようなものもあったのではないかと考えている。
喧嘩中に出た「うるさい」という断絶する言葉。単純に聞くと子供の言葉であるが、それは同時に袋の鼠のように追い込まれてでた悪あがきの言葉であり、それしか残ってないから嘘偽りない本心だと気づける。そこまで出し合って始めて、自分の本心が言えた満足感と、その本心が受け入れらた安心感が重なり合い、喧嘩とはいえども、心に触れたような気がして、突然機嫌が良くなってしまったのだ。
すっかり機嫌も良くなり、楽しそうにしている嫁。
最近思うのだ。嫁の身勝手は承知していて、こっちで判断している分、ある意味期待していないから、何を言われても問題ないところまで来ている。それに、理不尽に人の腕を枕にする事が彼女の本心だというのなら、この楽しそうな姿も確実に本心だと断言できる。この人に本心は隠しきれない。
身勝手は甘えでもあるが、その反面、裏がなくて信頼できる。信頼されたいインド人を信頼できず、勝手ばかりいう嫁やあの女の子を信頼できるという皮肉。
なんだか捻れている気もするが僕にとっては、楽しくないのに気を遣って楽しいと言われるより、いくら理不尽でもこれの方がいいのかもしれない。
それに気づけただけでも、インドに来てよかったと言えるだろう。
と考えていると、ぬるっとした物を踏む。やはり牛の糞だ。