「療育」に私が感じる周りとのズレ
私は療育に現場で働いている。
入職してわりとすぐ産休育休に入ってしまい、この秋復帰したばかりなので、この業界での経験は浅い。
だからなのか?私の「療育」の認識に何か周りとのズレを感じる。
うまく言葉にできなくて、ずっとモヤモヤしていたのだけど、今回頑張って言葉にしてみようと思う。
現場で働いていると、職員間で「集団行動」とか「集団指示が通る/通らない」なんて言葉を使っているのが聞こえる。
なんとなく、
「園や学校でみんなと同じようにできるかどうか」
「できるだけ集団でうまくやっていけるようにする」
を意識しているように感じる。
実際に職員や事業所が「それが私達の療育の目的です」と言葉にしているわけではないし、
私から尋ねたこともないのだけど、そうしたことが目的かのように感じることがある。
じゃあ私はどう思っているのかというと、「療育」は「子どもがその子らしく生きる方法を一緒に見つけていくこと」だといいなと思ってる。
確かに「お片付け」も「人の話も聞けるようになる」も大事だとは思う。
だけど、なんで大事かと言えば「それが社会のルールだから」というよりは、もっとその先を意識したい。
例えば「お片付け」
発想力が豊かで、いつも楽しいことを考えつき、人を巻き込んで遊びをどんどん展開させていく才能のあるAちゃん。
気は散りやすく、片付けが苦手。
おそらく脳機能的な問題で片付けがもともと苦手、且つ遊びを次から次へと進化させるので、使うおもちゃの数も膨大すぎて、お片付けの難易度を更に上げている。
だからAちゃんにとっては「『お片付け』なんてとてもできるものではない」というイメージなんじゃなかろうか。そうするとまずお片付けに手をつけたくない。
大人だって「とてもじゃないけどできなさそう」と思うものに対して、さっと行動なんてできないはず。
だけど、周りはお片付けのイメージができているので、
「ひとつも片付けようとしないAちゃん」に対して、
「やる気がない」(←ある意味そうだけど)、「楽しようとしている」ように見えてしまう。
そうすると、またAちゃんがおもちゃをたくさん使って何かクリエイティブな遊びをはじめると、「結局私が片付けないといけないんでしょ?」と思う大人が、その遊びを良く思わないようになる。場合によっては「どうせ片付けられないんだからやめて」と止められたりもする。
すると、Aちゃんのクリエイティブな面が阻害されてしまう。
そういう意味では、Aちゃんのクリエイティブな才能を輝かせるためにもお片付けはできた方がいい。
そして特性がある以上、根性で「みんなと同じように頑張る」ではなくて、「Aちゃんなりのお片付け方法」を見つけていくことが大事だと思う。
それはお片付けを細分化して気が散りにくくすることかもしれないし、もしかして「片付けを一部手伝って欲しい」と周りに頼んだり交渉する技術を習得することかもしれない。やり方はいくらでもある。
ってかお片付け習得しなくても、困らずにクリエイティブさを伸ばす方法があれば、お片付けだってできなくていいんじゃない?って思ったり。
「社会のルールを守って集団行動ができるようになること」そのものよりも、「その子の個性を輝かせる為にできた方がいい」と思うことのサポートの為に療育ってあるといいなと思う。
私にとって療育のイメージは、「個性を活かすための社会適応」であって、「社会適応のために個性を潰してしまう」のであれば、何かまた別ルートを考えた方がいいのではと思う。
けど、私の勉強不足なのか、認識不足なのか、理想論すぎるのか、もしかして当たり前すぎることを言ってなんか恥ずかしい人になっちゃってるのか…よくわからない。
なんとなく、職場で「集団行動ができる/できない」「集団指示が通る/通らない」なんて言葉を発しているのを耳にすると、居心地の悪さを感じてしまう。
「集団指示が通る」って…「指示が通る」ってなんだよ。なんか上から目線というかなんというか。コミュニケーションの方法って人によって違うじゃないかと思ったり。
なんか苦しい。