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558.【ソロ活】映画『本を綴る』(扇町キネマ 2025.1.30)

本は、私にとって、カウンセラーだったし、コーチだったし、ヒーラーだった。昔も、今も。

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気がつけば、登場人物とともに自分がいる。一緒に旅をしている。
旅の記憶をなぞり、重ね、旅先で立ち寄った書店を思い出している。
これまでの人生が、一冊の本のようにめくられ、ひと綴りになる。
見終わったあと、すぐに、もう一度観たくなる。

(本文より)

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昨年末から、塩屋の舫書店の山歩きのイベントや、水無瀬の長谷川書店のお話会のイベントに参加する機会があり、本に囲まれた空間にいることの幸せや、書店のかたのお話を伺う新鮮さ、作家さんとお会いできるうれしさ、書店のイベントに集まる人たちの空気感の中にいる楽しさを体験して、

(書店のイベントって、おもしろい!)

と、アンテナを立て始めたタイミングで、映画のことを知った。
しかも、概要を読むと、小説が書けなくなった作家が、全国の本屋を旅して廻っているという設定だ。

(なんて、タイムリー!)

今年の私のヴィジョンボードのタイトルは、「歌って踊って恋をして~旅するストーリーテラー」
旅とダンスと物語が、意識の中に渦巻いている私の前に、〈旅するものかき〉の映画が現れるなんて、タイムリーすぎて、信じられないくらいだ。しかも、上映されている映画館は、1週間前に知人の個展を観るために訪れた天神橋筋エリア。そのときに見つけた、おいしいパン屋にもう一度行けるし、ピアスを3つも買った不思議なお店にも行ける。
これはもう、夢の中でパンくずを落としながら、入っていった森の中に、現実の世界で、再び導かれるような感覚。

(ヴィジョンが、ひたひたと近づいてくる!)

映画のチケットは座席指定ではなく整理券式で、ウェブで購入するか、劇場で買うかどちらかだった。初めてのシステムなので、ぐずぐずしてしまい、ようやく前日に覚悟を決めてウェブで購入すると、まさかの整理券番号1番。

(前日の夜なのに?)

半信半疑で早めに訪れると、ロビーは開場を待つ人で賑わっていた。当日券を買う人が、次々にやってくる。空いている椅子に座っていると、先に座っていた人たちの話が、聴くともなしに耳に入ってくる。
どうやら演劇をやっている人たちのように思える。エントランスでも、「知り合いが映画に出ているんです」と、話している人がいた。
ほどなく開場の時間になり、整理券番号が呼ばれる。オンラインで発行されたチケットの画像をみせると、本当に1番! 「どうぞ、お好きな席に」と言われて、ほの暗い通路を進む。足を踏み入れたシアターには、誰もいない。しんとひそまる座席。スクリーンは、そんなに大きくない。ぐるりと見渡し、うしろをふりかえる。

(さて、どこに座ろうか)

どこがよいのかわからず、中央の席に着く。いったん外に出て、トイレをすませ、戻ろうとした時、シアターの入口で、「観に来てくださって、ありがとうございます」と、声をかけられた。先ほど、ロビーで話していた「役者」らしき人だ。関係者のかただったのか…… と思っていると、「脚本家です」と名乗られ、脚本家のかたに会えるなんて初めてで、びっくりして、うれしくて、ときめく。
パンフレットにサインをしていただけるかどうかを尋ねると、終演後にロビーでサイン会があるという。話しているうちに、役者として、この作品に出演されていることがわかり、そんなすごい人と自分が話をしていることが、信じられない。

(こんなことがあるなら、映画のことをもっと調べておけばよかった!)

と後悔しつつ、ふと我に返って、自分を俯瞰してみる。
午後3時からのソロ活映画で、知り合いに会う可能性など考えもせず、ぶくぶくに着ぶくれて、当然のことながら化粧もせず、のっそりやってきた姿に、ためいきをつきながら、上映の時間が近づくシアターへ。
ところが、見た目なんて、もうどうでもよいという領域に、ついに突入している自分を知って、ショックというより爽快! トイレに立たなければ、こんなふうに話しかけられることもなかったのだから、世界は必然に導かれている。

終演後に、脚本家のかたとお話する機会があるとわかったので、映画への集中度はマックスだ。あっというまに、スクリーンの中にいざなわれ(実際に訪れたことのある場所が出てきたし!)、織りなされるエピソードの登場人物それぞれに感情移入しながら、ひきこまれていった。
私にとって、本は、人生のあらゆるシーンと連動していて、そのときの感情が、いつでもリアルに蘇ることを、体感した。

(「本を綴る」ってどういうことなんだろう)

タイトルを見たとき、すぐに感じたことだ。
書けなくなった作家が主人公だから、小説を綴るということだろうか? と思ったけれど、本=小説ではない。では、「本」って?
人生? 心模様? 物語? 次元? 時空? バーチャル? 扉?

(私の人生に、本が在り続けていることを、幸福に思う。心から)

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「いまここ」にいることは、とても大切だけれど、「いまここ」から解き放たれることが、絶対に必要な時があると思う。

(特に、魂が肉体に入ったばかりの子供にとっては)

「無心になって遊ぶ」とは、そういう時間だ。そして、本をめくることで、次々に運ばれていく世界に飛び込むことも。
映画をみていて、私がかつて本の中で体験した、さまざまな世界を思い出した。
どうして、あんなにもたやすく、本の中に入ってゆけたのだろう。それも、時空を超えて、いつでも、どこでも、何度でも。数えきれないほど、繰り返して読んだ大好きな本のことや、胸の高鳴りが、リアルに甦る。
小学校に入学して、図書室を知ったときの歓びと感動。図書館を訪れたときのときめき。書店ですごす、キラキラとした、あっというまの時間。

今でも、図書館に通っているし、かばんの中には必ず本が入っていて、電車の中は読書タイムだ。スマホをさわっている人も多いけれど、本を読んでいる人も多いことに、すくわれる思いがある。

本は、私にとって、カウンセラーだったし、コーチだったし、ヒーラーだった。昔も、今も)

『本を綴る』に出てくる、森の木の香りがただよってくるような図書館や、森の中の本屋さん。
京都でのシーンは、書店も、インクラインの道も、実際に訪れたことのある場所ばかりで、ぐっとひきこまれる。
映画に登場する小説『悲哀の廃村』の舞台となった集落の地名も、小料理屋の壁にかけられた写真の地名も実在し、虚構と実在がまじりあう。

気がつけば、登場人物とともに自分がいる。一緒に旅をしている。
旅の記憶をなぞり、重ね、旅先で立ち寄った書店を思い出している。
これまでの人生が、一冊の本のようにめくられ、ひと綴りになる。
見終わったあと、すぐに、もう一度観たくなる。

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この映画には、作家が旅に出る前の物語『本を贈る』があり、YouTubeで観ることができると教えていただき、帰宅後、一気に観た。すっかり忘れていた「サン・ジョルディの日」のことを、思い出す。
夫と私は、本を読んだり書いたり、絵を観たり描いたりするのが好きという、共通項がたくさんあるインドア夫婦だけど、好きな本のジャンルが違うので、お互いの本棚の本がまったくかぶっていない。

〈結婚って、知らない本が本棚に並ぶことだった!〉

という、新婚時代の衝撃的な発見。

つきあい始めたころ、夫からもらった最初のプレゼントが「本」だった。実は一度読んだきりだ。私がプレゼントした本も、おそらく夫の好みではないから、同じ末路だろう。結婚したので、同じ本が本棚に2冊ずつあるのだけど、表紙を見ると、古傷がうずく(笑)。
本好きは本をプレゼントしたくなるけれど、本好きに本を贈るのは、なかなかハードルが高いと感じる。

さて、昨年から、書店のイベントに参加する機会が続いたこと、『本を綴る』『本を贈る』という作品に出逢い、本への憧憬が甦ったことから、こだわりの店主の選書を巡りたい気持ちが、むくむく湧いている。
2025年、旅する心の羅針盤は、本屋に向けて出帆している。
(さっそく、その翌日に参加した、神戸市長田区駒ヶ林探訪のイベントで、長居したくなる書店〈本屋ロカンタン〉に出逢ったよ!)

映画終了後のロビーでは、脚本家であり、森の本屋さんを演じられた千勝一凛さんと、旅館のおかみさんを演じられた及川規久子さんが、パンフレットにサインをしてくださる場が設けられていて、ほぼ観客全員が並んでいるのではないかと思うくらいの列ができていた。
どのかたも、サインをしてもらうだけではなく、ほんとうに熱く、映画を観て感じたことや、本や書店への想いを伝えていらっしゃる。その声が響きあい、余韻が重なる、あたたかな振動にフロアが包まれている。
そのことにも、感銘を受けた。

(本を綴るとは、人生のページを綴ること)
(人生という一冊の本が、綴られていくこと)

そんなふうに感じている。

浜田えみな


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