納得の作る社会
技術の高度化によって複雑化した社会においては、わかることよりも分からないことの範囲の方が多くなり、そうなると、個々人がどの範囲で納得しているか、ということによって社会が円滑に動くようになるのではないだろうか。多くの人が納得していることに関しては滑らかに動くし、そうでなければどこかで摩擦が発生し、うまく動かないことになる。そして、組織による情報共有というのが強い力を持ち、組織の価値体系により、そこに所属する人々の納得のあり方というのは変わってくるので、組織の価値体系を定めるものが大きな力を持つことになり、そして組織が大きければ大きいほどに、社会におけるその力も大きくなる。それは企業であるかもしれないし、宗教であるかもしれないし、また他の様々な形態でもありうる。しかし、問題は、そのような組織の価値体系に依存した納得というものが、本当に個々人の意志であると言えるのか、ということだ。組織で出世するために納得したこととする、というのは、全く納得という言葉にふさわしくなく、せいぜいわかったことにする、そういうふりをする、ということにすぎない。それはどこかで無理を生じ、摩擦を生じさせるのであろう。そのようなことが積み重なって、企業が、そして社会全体がどこかで硬直化していくのではないか。それを避けるためには、一人一人が、心の底にまさに腑に落ちるというような納得の感覚をしっかりと持ち、そこに至るまではとことん議論する、ということが必要なのであろう。
私の感覚では、納得という言葉に適切な英語はないように感じる。assent、あるいはconsentあたりは近い感じがするが、assentの感じる方向へ向かう、というのは、何かの導きに従うという感じを受け、consentの共に感じるというのも他者との関係性でのもので、合意という意味では一番近そうだが、自分の心の中での納得というものとはちょっと違うような感じを受ける。よく、欧米社会は個が自立している、と言われるが、「納得」という言葉を考えると、禅的な伝統を持つ日本の方がはるかに自分自身と向き合うということについて文化の中に組み込んでいるのではないか。実際には、西洋は、古代ギリシャについてはちょっと今の段階では分からないが、少なくともキリスト教の受容以降においては、デカルトに至るまで個が自らと向き合うということからはすっかり隔絶しており、自身敬虔なカトリックであったデカルトによってようやく懐疑という形で個を見出したにすぎず、見方によれば、そこから先の自らを信じてその考えにしたがって納得する、という境地には至っていないのでは、とも考えられる。その意味で、スティーブ・ジョブズが禅に感銘を受けたのも、もしかしたら納得という感覚に触れたからなのかもしれない。しかしながら、それが、逆に日本において、明治以降の西洋的な文化の流入にしたがって、神の導きに従うこと、あるいは他者との関係性で考えを決めることというのが個の自立である、という、少し筋から外れた解釈になってきたのではないかという気もする。
それはともかく、お互いの納得という感覚を重視して社会の意思決定がなされれば、それ自体の性質から、支配も抑圧も、あるいは強制や従属も起きることがなくなる。つまり、自由とは納得に基づいた行動であると考えられるのではないか、ということだ。この感覚は、consentというのが部分合意で、つまりお互いわかったことについて合意する、という感覚に対して、納得に基づくものはお互いの違いにまで配慮し、相手が何がわかっているのかを含めてわかる、というもう少し全体的なものではないのかな、という感じを受けている。違いへの配慮というものを考えれば、完全情報なるものに基づく経済学的な合理性の判断というのがいかに納得を損なうか、ということも理解できよう。経済学的な合理性を基準とした”完全”情報は、納得に基づく意思決定の基準とはなり得ないのだ。ここに功利主義的な考え方の限界があるのではないかと感じる。
そう考えると、功利主義を前提として設計されている社会制度全体を見直す必要が出てくるのかもしれない。例えば、典型的な社会的意思決定の仕組みである政治について、現状の選挙に基づいた間接民主制、それは直接指導者を選ぶいわゆる直接民主制と呼ばれるものも含むのだが、それは納得を十分に反映したものであると言えるのだろうか。選挙の時の一時的な人気によってその後の一定期間の意思決定を全て委ねることは納得につながるのだろうか。それは株式会社的なものについても言える。働いている人が、いくら出資者だからといって、顔を見ることもない株主の意志に従属する、という制度はそれ自体納得に基づくものなのだろうか。嫌なら別の会社に行けといっても、制度としてそうなっている以上、どこへ行っても株式会社である以上はその株主の意志に従属する必要があることになり、それは本質的に納得に基づくものではない。株主と直接対話する仕組みが制度的に整っていないからだ。さらに、その株主がまた株式会社であったとしたら、一体誰の意志に対して納得すべきなのかすらも分からなくなってしまう。それならば、責任体系の明確な、いわゆる封建制の方が、仮に信頼できるボスを自由にいつでも選ぶことができるのならば、株式会社はもちろん、間接民主制よりもはるかに納得の度合いが高いことになる。この辺り、いわゆる「近代化」の偽りのヴェールに誤魔化されることなく、何が本当の自由なのか、何が自分にとって納得がいく仕組みなのか、ということを考え直す必要がありそうだ。社会制度について、それぞれがしっかりと考え、そして多くの人の納得の高い制度が具体的にイメージされれば、それによって納得の高い社会が自然に構築されてゆくことになる。つまり、一人一人が、特に制度的な面において具体的に納得がいくまで考えることによって、納得できる社会制度が生まれることになると言えるのだろう。
私は個人的には、株式会社が当面存続するにしても、少なくとも法人が株主になるということは認められるべきではないと考えているし、そして政治については、なるべく身近なところから、本当の意味での直接民主制、政策自体を個々人が直接決める、という仕組みが導入されるべきであろうと考えている。かといってそうならなければならない、といっているわけではなく、それに対して様々な具体的議論がなされ、それによって具体像が定まり、私自身も納得ができるような社会になってゆけば良いと考えている。
社会はそれぞれの納得によって形成されるのだ、という考えが広まり、国民総納得、人類総納得が高まってゆくきっかけになるような年になれば良いな、と考えながら、壬寅(令和4年・西暦2022年)年初の投稿としたい。