神話と共同錯覚
いわゆる民族の共通の記憶として形成されるのが神話だと言えるのかもしれない。
多神教神話と一神教神話
神話にも、ギリシャ・ローマに代表される多神教的神話と、それが一つの体系にとりまとめられ宗教化したとも言える一神教的な神話とがあると言えそう。日本神話はその折衷とでも言えるもので、『日本書紀』の神代紀には、多くの「一書に曰く」が採録され、さまざまな立場の違いがあったことを示しているが、結局それは一つの大きな物語の中の解釈の違いということであり、個別の物語をそのまま遺しているわけではない。それは、一神教的宗教がいかにして多神教、あるいはさまざまな背景を持つ文化を統合してきたのか、という過程を示しているものとも言え、大変興味深い。
『日本書紀』成立までの混乱
『日本書紀』成立に至るまでに、飛鳥時代くらいから諸家から系譜を集め、それを取りまとめることで一つの物語の出発点にしたということがあるのだと考えられる。それを取りまとめるのには当然さまざまな立場の違いが表面化し、だからこそまず『古事記』に至るまでにおいても雄略天皇と欽明天皇の間にはかなりの溝があるように見受けられ、そしてその『古事記』自体も推古天皇までしか纏められず、その後『日本書紀』に至るまでの大化の改新から持統天皇に至るまでも壬申の乱による皇統変更があるということで、それらがさまざまな話を一つにまとめる際の混乱であったのではないかと見受けられる。
仏教の浸透と日本神話の成立
それらの混乱は大陸での混乱と同期するようなところもあり、すなわち大陸における『史記』という一つの神話体系の中に組み込むという強い圧力がかかり続ける中で、日本列島という括りで独立性を確保するために諸神話を統合して一つにまとめる必要が出てくるという集権圧力ドミノのような現象が起こっていたのではないかと考えられる。それは、大乗仏教という他力本願的な宗教、すなわち仏というすでに抽象化した存在に救いを求めることで救われるという考えの広がりと同期するように、神話の中に意図にそぐわず組み込まれ、削り落とされた部分を宗教が拾い上げるという形で進行していったと考えられ、その結果としての推古天皇期の聖徳太子伝説、そして奈良時代の鎮護国家という、政教一致体制の展開に至ったのではないかと考えられる。
多様な価値観を反映した抽象的神話
その過程において、物語ありきでその中にさまざまな話を「一書に曰く」で織り込むという形を取ったので、地域個別具体的な話が残るというよりも、一般化された話として神話化される、ということがあったのだろう。この在り方については、さまざまな評価はできそうだが、まず、神代紀自体非常に抽象性の強い話で、具体的な場所、人物、物語の特定が難しいということがあり、それ自体多様な価値観のネットワーク構造構築の知恵として、どこか具体的な神話が主導的な立場を取るということのないように、という長きに渡った知恵の結晶であった可能性はある。緩やかな価値観共同体を作るにはこうした曖昧な形で一つの物語の中に似たような話を織り込んだ方が先鋭的な対立を避けられ、そしてその対立が先鋭化してしまったときには、それを収めるように「一書に曰く」で多様な立場を示した、という、いわば多国間外交の玉虫色的共同声明の積み重ねのようなものだったと言えるのかもしれない。
神話の具体化と中世
それが、いわゆるヤマト王権という形で中央集権的な権力成立、それと宗教の浸透とどちらが先なのか、というのは、大陸の状況をも鑑みながらさらに検討する必要があるのだろうが、とにかくそれに従い、神武東征的なより具体的な神話体系へと切り替えが図られていったのが日本的な中世の時代の幕開けであったと言えるのかもしれない。それは、ローマ帝国がキリスト教化して中世に入っていったヨーロッパの歴史観とも共通すると言えるのかもしれない。その画期となったと言える西ローマ帝国の滅亡にあたるのが、『日本書紀』として最初に成立したのではないかと考えられる応神天皇の治世であると言えるのかもしれない。
とにかく、『日本書紀』において、応神紀以降は急激に話が具体化し、いわゆる歴史時代が始まったのだと言えそうだが、皮肉なことに歴史時代というのは、英雄的大王を中心とした一つの具体的物語の中にさまざまな話を織り込むことになり、それ自体むしろ神話化が急速に進んだ時代になったと言えそうだ。大王は社会を象徴する存在であり、分権的ネットワークであったと考えられるそれ以前の社会が、あたかも一つの統一的な文化として統合されたのだとの神話ができたのだと言える。しかしながら、稲作の広がりにある程度の時間的幅があり、また古墳にしても地域によって年代や大きさにばらつきがあることを考えれば、一気に統一政権が成立したのか、ということに関しては疑問の余地がある。その意味では、これは『史記』から引き継いだ伝統だとも言えそうだが、王権の成立自体が歴史時代というよりも神話時代を始めたのだ、ということができるのではないかということだ。
強い王権と神話化
この観点で言えば、具体的な話、特に強い王権が記されていればいるほど、それは王権の神話化が進んでいる時代であると言え、『続日本紀』をどこまで同時代の記録と考えるかは難しい問題ではあるが、とにかくその時代は国分尼寺の設置に見られるように、各地に存在したであろう多様な女系社会が仏教という一つの価値体系に統合されたことで、百年足らずの女系を中心とした一つの王権による割とまとまりのある時代区分が成立したのだと言えそうだ。
強い王権は、共同錯覚が強まった時代であると言え、それは、緩やかな価値観ネットワークが一つの物語を共有する共同文化という錯覚に置き換えられてゆく過程であったと言えそうだ。その錯覚を支えるのが、歴史書と呼ばれる文献資料であり、そこに書かれたことは全て事実であると考えがちであるが、それが神話的要素を含み、そして人間によって書かれたことを考えれば、そこには必ず偏り、そして誇張が見られるということは留意すべきであろう。そして、その様な強い王権が多神教的神話を一神教的なものに変えてゆくのだと言える。
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