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命の水
散歩の時によく通る細い路地には、年季が入った古い長屋が並んでいた。
明治・大正・昭和初期にかけて建てられた日本家屋の、あの独特の佇まいが好きな私は、この長屋の筋がお気に入りで、散歩の時にはいつも必ず通るようにしていた。
この長屋は、今どき珍しく満室のようで、どの部屋も昔から住んでいる住人ばかりだった。そこに漂う気配から感じるに、皆さん、ご高齢者なのだろう。
少し開いた窓から聞こえるテレビの音、ガチャガチャと食器を洗う音、電話で会話している高齢男性のしゃがれた大きな声、いろんな生活音が路地に漏れ出て、通行人の耳に入ってくる。
路地の曲がり角で、塀で囲まれた長屋の庭をちらりと覗いて見ると、高齢者のものとしか思えない肌着や衣類が、洗濯竿に雑にひっかけられ、風に揺れていた。
その空間だけ、すっぽりと昭和のまま取り残されたようだった。
◇
そんなある日のこと、もうご老人しか住んでいないはずのその長屋の一部屋から、若い女性の笑い声が聞こえてきた。
一瞬、気のせいかと思った。
しかし、よく耳を澄ますと、若い娘特有の、まるで鈴を鳴らしたかような可愛らしい猫撫で声が響いている。これはテレビやラジオの音ではない、本物の人間の声だ。
私はこの路地を何年も歩き続けているが、若い女性の声を聞くのは今回が初めだ。
意外なこともあるもんだ。多分、この住人の孫か曾孫か、親戚の者でも訪ねてきたのだろう…。そう、思うことにした。
◇
やがて女の声のことなどすっかり忘れてしまったある晩、出先から急いで帰宅しようと、私は珍しくこの路地を歩いた。
いつもは休日の昼間に歩いていたから、見慣れない夜の風景は、私の目には新鮮に感じられた。
もう深夜0時になろうとしている長屋は、全ての部屋の明かりは消され、真っ暗になっていた。長屋の角で外灯がほのかに灯っている。
もう皆さんお休みなんだな…と思い、静かに通り過ぎようとしたその時、私が歩く真横で、長屋の玄関が勢いよくガラリと開き、中から人が飛び出してきた。
わっ!
私は心臓が止まるんじゃないかと思うほど驚いた。
その人物は、慌てて飛び出したと見えて、私にドンとぶつかってきた。
息が止まりそうなほど驚愕した私は、とっさにぶつかった人物を私の肩と腕で受け止め、思わず両手で捕まえた。
恐る恐る見ると、それは若い女だった。
髪の毛を振り乱し、寝間着の浴衣をゆるく着流し、私の腕の中にスッポリ収まっている。
女はゆっくり顔を上げ、私を見上げた。
その時、女の顔を初めて見た。薄い外灯の下であったけど、目鼻立ちが整った美しい顔であることが分かった。
女は、私に「手を離してください」と言った。
あっ…この声は。
そうだ、以前、この長屋で耳にした若い娘の声と同じだ。
しかし、どうしてこんな時間に、この女が飛び出してきたのだ。意味がわからない。しかも今どき、こんな古めかしい寝間着姿など、珍しいではないか。
女は私を見上げて、艶めかしくニヤッと笑うと、
「よかったら中で休んでいきませんか?」と言い、私の手を掴んで、長屋の中へと引っ張り込もうとした。
このままつられて中に入っても、いいものか?
少し迷ったけど、女に興味が引かれた私は、そのまま入ってみることにした。
真っ暗な長屋の玄関の中に入ると、戸が勢いよく閉められ、ガチャガチャと鍵がかけられ、そのまま奥の畳の上へと連れ込まれた。
土間には私の靴が転がり、脱ぎ捨てられた私の服が散らばり、気が付くと、女は私に絡みついていた。
しまった…。
そう気づいても、万事が遅かった。
この闇は一体何だ?
どんどん堕ちていく。
もう戻れない。時間も、肉体も、魂も、全てが…。
苦しいのか快楽なのか、全くわからない微睡の中で、私に絡みつく女が、まるで鈴の音のような可愛い声をコロコロと鳴らし、私の耳元でささやいた。
「ちょうど奥の部屋が空いたところなのよ」
えっ?どういうこと?
「あの部屋にいた男が死んだの。老衰で。だから次は、あなたに住んでもらうのよ」
そう言うと、女は猛烈な力で私にしがみついてきた。
まってくれ!私にはそんな無理だよ。私には家族もいるし、家もある…。
そう言いたくても声が出ない、体も動かない。
「だめよ。あなたは、この長屋が好きなんでしょう?ずっと長屋の前を歩いていたじゃない。時々中の様子をうかがっていたことも知っているわ。そして、あなたが私の声に興味を持ったことも知ってる。だから一緒に暮らすのよ」
女はそう言うと、私の首を絞めてきた。
あっ苦しい…。
「大丈夫、死なせはしないわ。ただ、あなたの命の水をいただくだけよ」
命の水?
「そう、命の水。私がいつまでも若く美しくいられるために…」
女は嬉しそうに舌舐めずりし、冷たい瞳で私をじっと見つめてきた。
窓から入る月明りで自分の腕を見た時、ひどく年老いた男の腕になっているのに気づき、ハッとした。
部屋の片隅の姿見に目をやると、そこにはすっかり変わり果てた老爺の私が映っていた。
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