茶道と心。
ラジオで、千里金蘭大学の生形貴重名誉教授が「山上宗二記」についてのお話しをされていて、とても面白く拝聴させていただきました。
「山上宗二記」というのは、千利休に二十年間茶の湯を学んだ高弟である山上宗二が記したものです。
その中に記された武野 紹鷗(たけの じょうおう)の言葉をラジオの中で紹介されていました。
武野 紹鷗は、戦国時代の堺の豪商であり、茶人にして和歌に通じた連歌師でもあります。武野紹鴎の弟子に茶湯の天下三宗匠とよばれた千利休や今井宗久、津田宗及らがいます。
紹鷗は、臨終に際して、
「茶味と禅味は同じことである事をよく認識し、松にそよぐ風音を、耳を澄まして聞き取り、意志を高潔に保ち、俗世間の塵にまみれてはならない。」と、おっしゃっていたそうですが、わたしはこういった日本の茶道における精神性の美学をとても重要に捉えていて、またいつも意識のどこかに置いています。
ラジオの音声からの書き起こしなので、誤字があるかもしれませんが
「山上宗二記」の中に記されている武野 紹鷗のお言葉から、茶道の美学、そして深淵なる哲学に触れてみました。
数寄者は廃れたる道具を見たて
茶器に用い候こと
いわんや家人をや
数寄者というは
隠遁の心を第一に
侘びて仏法の意味をも知り
和歌の情も感じ候ひがし
この言葉を知ったなかで、「数寄」という言葉が指すもの、人物像とは一体どんなものかが気になり、「数寄」に焦点を当ててみました。
方丈記で有名な鴨長明は「発心集」の中でこのように述べています。
「数寄というは、人の交わりを好まず、身のしづめるをも憂へず、花の咲き散るをあわれみ、月の出入りを思うにつけて、常に心を澄まして、世の濁りに染まぬ事をすれば、おのづから生滅のことわりも顕れ、名利の余執つきぬべし。」
「花の咲き散るをあわれみ、月の出入りを思うにつけて、常に心を澄まして」のくだりは、心の透明度や豊かな感性を思い起こす表現だと思います。
数奇というは、世俗的な社交を好まず、身が落ちぶれても憂うことはなく、花や月を感じる豊かな感性とともに心に集中して、世俗にまみれない精神的なゆとりを確保することで、あらゆるものは常住不変でなく生滅するのが真理であるということを自ら体現し、名誉利益への執着も止むであろう。
以上は私の解釈なのですが、こればかりが正解ではなく、きっと様々な解釈があることだと思います。定められた答えのない海。その海を泳ぐことで感じる物事。これが思想や哲学の面白みでもあると思います。
「数寄」とはもともと出家や遁世に関わる言葉だったものが、やがて茶道の精神的な部分、思想を表す言葉になっていき、その中で風雅を追求するもの、芸術的に生きるもの、没頭するあまり出家してしまうような生き方のことをいうようになったそうです。
折れない心を養うもの。
一途に貫く姿勢。
向上心を持って向き合うもの。
澄み渡る透明な心を育てる。
茶道は精神性を高める道でもあります。
「数奇」に関わる思想を学ぶことで、
お稽古を積む中で大切にしたいものを改めて感じ取った時間でした。
今日も豊かな時間をありがとう。
月 花 美 茶
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