私は最悪なので褒めないで欲しいけど
昨日(正確には一昨日)、『わたしは最悪。』を見て、今日『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』を読んで、自分を客観視できた。
『わたしは最悪。』は、ここではないどこかを求め続ける人のどうしようもない選択とその結果を見せてくれた。『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』は若者の安定志向について教えてくれた。両方とも自分の話だった。
『わたしは最悪。』のユリヤのフラフラとした意思決定と何にも身が入っていない感じは、まさに自分の大学生活と被るものだった。ユリヤが最初、医学の道に進み、その次に心理学を学び、最後には写真家になる、そのプロセスは、自分が商学部に入りながらも、プログラマーになりたい気持ちを燻らせて、ちょっと教本買ったはいいものの勉強はせず、データサイエンスの講義もUIデザイナーの勉強も途中で投げ出した姿と重なった。
ずっと空虚に、ここではないどこかを夢見ている。最近だってずっとそうだ。このまま営業職として働くよりも、社会貢献をするような、NPOとかの方が良いんじゃないかと思って、ボランティアに参加しようかとネットで参加できそうな活動を探したりとしていた。でも、それもきっとただのここではないどこかを夢見ているだけだ。
『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』においては、手に職をつけたがる若者、社会貢献をしたがる若者の心理が描かれていた。
まさに自分の話だった。今の自分も、就活生の時の自分が求めていたものも含め全部が書かれていた。自信がなくて、周りから浮くことを怖がって、公式見解・正解を探して、マニュアルを欲しがって、献血はしないけど社会貢献だけ一丁前にしたがる、外面だけ良い真面目な子。
安定を求めない人間の気持ちが分からなかった。マニュアルを求めない人間の気持ちが分からなかった。失敗してこそという人間の気持ちが分からなかった。外に出て行きたい人間の気持ちが分からなかった。それは自分の心のありようが自分の中であまりにも絶対的だったからだ。自信がないことも公式見解・正解を求めるのも、マニュアルが必要なのも当たり前だと思っていたけれど、それは全くもって当たり前ではないということを知った。しかも、別にだからと言ってなんだ、ということも知った。こんな本が出るくらいには、若者は苦しみ、若者と相対する大人たちも苦しんでいることを知った。
自分のマインドを変えようとか、そんな夢物語はもういいやと思った。気持ちが整ったら、変えられたら何かをしようという考え方はまさに自信のなさの延長だから、そういうのをぶっ飛ばして、選択と行動をしていこう。生活していこう。積み上げていこう。知らんけど。