#60 リチャード・ブローティガン「西瓜糖の日々」〜生々しくないとダメですか? の感想
※これはポッドキャスト番組「翻訳文学試食会」の感想です
今回の本
今回のキーワード
全編これ心象風景。現代芸術。因果関係はない
学生の頃に読んだときは嫌悪と苛立ちしか感じなかった(干場さん)
30年ぶりに読んだら「これはええもんやな」
青春時代の終わりは小さな死
もっといろんな葛藤あるやろ。欺瞞
目をそむけたくなるものを生々しく伝えるのは伝わらない
抽象化して伝えれば伝わるのか?
西瓜糖って何?
この小説の題名自体は以前から知っていて、「西瓜糖」っていうのは金平糖のような淡く透き通っていて儚い感じのお菓子を想像していた。今回読むのにあたって実物を調べてみたら。
なんか水飴状のシロップのようなものなのかな?想像と思いっきり違ったわ。万能薬のようだし味も気になるが結構お高い。
アイデス〈iDeath〉と〈忘れられた世界〉
この小説のひとつひとつの細部を「これは何?」「どういう意味?」と問うのはかなり無意味なような気がするが、たとえそれが間違った読み解きだったとしても前提になる仮定が欲しい。
私が思い描いたのは一種カルト宗教的なコミューンがアイデス、そこから出た外の世界が忘れられた世界、として読んだ。
「わたし」は家族ぐるみでそのコミューンにいて、外の世界の大人=虎たちがその世界から「わたし」を切り離そうとした=虎に両親が食べられた、のような様子を思い描いた。そうすると最初に読んだときよりはすんなりイメージできた。
インボイルとかマーガレットは外の汚い、野蛮な世界を知ってしまった人たち。わたしとポーリーンは一種不自然とも言える清潔な世界(アイデス)に留まる人たち。
「わたし」はアイデスで幸せなのだと思っていたが、P.21に「22 西瓜糖で生きてゆくこと。(これよりひどい生活だってあるだろう)」とあるのが気になった。「わたし」もなんとなく外の世界がそこまでひどいのか?本当に?という疑問があるんじゃないか、と思った。
ちょっとシャラマンの「ヴィレッジ」という映画を思い出した。あれも争いのない理想郷をつくった大人たちの話だった。
村上春樹、江國香織
私は熱心な村上春樹作品の読者ではないが、P177「明日」の章は「これは村上春樹だなぁ」と思った。
もうひとつ私が想起したのは江國香織の「なつのひかり」この作品も非現実的なエピソードを細かく繋いでいくのだが、どこかひんやりしていて、現実離れした遠くから眺めているような感触がある。
ブローティガンのユーモア
描いている世界はよくわからないんだけど、表現は好きだなーと思う箇所がちらほらあった。
両親を食べてしまう虎に対して「算数を手伝ってほしい」という「わたし」と「八かける八」を「五十六だ」と応える虎。乗り込んできた虎のほうが「もうどっかへ行っちまってくれ」というのが奇妙でおかしい。「算数を教えてくれてありがとう」というどことなく不気味な感じ。
私がもっとも好きだなと思ったのがP.69 の「学校の先生」の章。
男の子と女の子が交互になってちんまり坐っている感じだろうか。すごく好きだ。
「よくわからない世界」の物語
確かに「わけわからん」小説ではあるのだが、ちょっと前に「やし酒のみ」を読んでいたので、それに比べればまだ理解できる面が多かった。ただし「細部の意味はわかるが通して見るとなんのことだがわからない」という印象だった。
ただ、「わけわからん本」の効能というものも確かにある、と最近思うようになった。なぜなら日常は「辻褄合わせ」を必死にこなさないといけないからだ。集計して数が合うとか遅刻しないように決まった時間の電車に乗るとかそういうことだ。
そしてそういう息苦しい枠を忘れさせてくれることも小説の効能なのではないか?
小説には感情を揺さぶる以外にも、お湯に浸かった時や涼しい風に吹かれた時や良い香りを感じた時の心地よさのように、触感とか肌触りとかそういうものを想起させることがある。この小説はそういう空気を文字で味わえる、そういう作品だと思う。アロマオイルとかに近いのかも。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?