僕の人魚
『二人とも、結婚不適合者だと思うの。だけどいま、私たちはある意味において、結婚をする。人と人魚が結婚したいと願うようなものよ。お伽話では上手くいかなかったけれど、それを乗り越える覚悟ができているのかしら。お互いに、一度は失敗しているのだから。』
これは、彼女流の例え話で、僕たちは結婚するわけではない。だけど、もしかしたらそれよりももっと難しく、脆い関係性を築こうとしているのかもしれない。何の法的抗力もない。恋人同士になる時のような口約束もない。ただ、言葉なく一夜を共にしたという事実だけで、そのままずっと自然に一生を添い遂げるような、何にも承認されていない関係性を築こうとしているのだ。
個人事業主の僕たちは、一緒に新しいサービスを立ち上げようとしている。
つまり、彼女の例え話によると、ある意味では結婚をして、子供を産もうとしているということになる。
風の時代に、群れずに群れる、という感覚がフィットしているような気がしている。思想や哲学が重なったもの同士が、期限も設けず、契約書も交わさず、言うなれば『フィーリング』で、誰と何を成すかを選べる時代。
実生活では彼女は昨年離婚し、僕は離婚していないが円満な家庭内別居をしている。それぞれに、子供には真摯に向き合っている。様々な夫婦の形がある。夫婦問題は当事者にしか判断できないことの連続だ。お互いにその、曖昧な粘膜には触れない。
『ちょっと濃いリップを塗っていると息子がダメ出しするのよね。もっと薄い方が可愛いって。愛っていろんなところにあるね。』と、彼女が言った。
そう、愛はいろいろな場所に、いろいろな形で存在している。大きさも深さも温度も様々。
でも、どんなに小さくても冷たくても、愛は愛でしかない。愛と呼べるものは、男と女の、熱く燃え上がるものだけではない。
彼女は今週末も夫のところに預けている息子に会いに行き、僕は今週末も妻との距離を適度に保ち続ける。まるで水槽の中のあちらとこちらをぐるぐる泳ぎ続ける2匹の魚たちのように。月曜の朝には彼女は僕のオフィスに来て、一緒に新しい仕事のあれこれを整え、僕たちは思想や心や資金や時間を共有しあう。一緒に食事をとり、週末の出来事を少し話して、価値観に触れあう。子育ての気づきや悩みも報告する。お互いをもう少しまた深く理解する。
結婚と、協業と。
どちらが実質的で、どちらが深いのだろうか。
身体を求める権利がある愛と、心にしか触れない愛の違いなのか。僕らの中の何が共鳴して、二人で一つのことを成し遂げたいと思うのか。
比べることに意味はないのかもしれないけれど、無関係ではないような気がしている。そこには自分自身のあり方のようなものが共通して存在しているような気がして。
暗く冷たい海の底を一人で泳いでいた。
誰もいない、美しく深い海。
泳ぎ進んで行った先に、彼女はいた。
海底の岩に膝を抱えて座り、僕を見つけると
ほんの少しの笑顔を向けてこう言ったんだ。
『ねえ、こんなところまで泳いで来たひとは、きみがはじめてだよ。』
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