ねえ、これは誰の格言なの?と聞いたら、 『さあ。夜は静かだからね。』 と返ってきた言葉。 『性的な交わりを避けることはできるけれど、目を逸らすことだけは絶対にできない。例えば、すぐれた音楽とはそういうものである。』 『どんな真意があるの?』 『音楽を耳で聴かなければわかるよ。』 彼は繊細な猫みたいに誰にもなつかない孤高の作曲家で、いつも真夜中に曲を創っている。そして時々、こんなふわりとしたメッセージを送ってきては答えを与えず、また音の世界へ帰っていく。私たちは過去に一度
『二人とも、結婚不適合者だと思うの。だけどいま、私たちはある意味において、結婚をする。人と人魚が結婚したいと願うようなものよ。お伽話では上手くいかなかったけれど、それを乗り越える覚悟ができているのかしら。お互いに、一度は失敗しているのだから。』 これは、彼女流の例え話で、僕たちは結婚するわけではない。だけど、もしかしたらそれよりももっと難しく、脆い関係性を築こうとしているのかもしれない。何の法的抗力もない。恋人同士になる時のような口約束もない。ただ、言葉なく一夜を共にしたと
時折二人は、誰にも告げず山に登った。朽ちた丸太が打ち付けられた階段を登り、夜露に濡れた石は少し滑る。ロープを手繰り寄せ、力を入れて岩を一つ一つ乗り越えて進む。汗が、首にいくつもの筋を作る。 近くに巣があるのだろうか。時折、偵察係のスズメバチが二人を威嚇した。それはまるで近づきかけた二人の距離に、警笛を鳴らしているかのようにも思えた。木立の葉の上には、鮮やかな赤色をした幼虫がはっていた。緑の葉の上に、赤色。そのことについて二人は首を傾げながら、それぞれの考察を話す。昔は見るも