interview 福盛進也 - about Shinya Fukumori Trio『For 2 Akis』 前編「ミュンヘンに移住したのはECMの本社があるから、それだけです」
「2018年にECMから日本人ミュージシャンがデビューする。」という情報を得たのは2017年の夏ごろだった。ECMの本社があるミュンヘンに在住の30代で福盛進也という名前のドラマーだと知ったが、どんなミュージシャンなのか僕は何も知らなかった。
会いに行ったのは2017年の8月。関西弁のイントネーションが残る穏やかな語り口で「ユニクロのECMのTシャツ出てましたよね。僕、爆買いしましたよ。」とか言ってしまうような大のECM好きの彼はジャズ史における超名門レーベルでありながら、謎も多いECMでのレコーディングの貴重な経験をたっぷり語ってくれた。
1万字越えで、分量は多いが、今のジャズを知るためのヒントが詰まっていて、『Jazz The New Chapter』の読者には有益な話があまりに多い。ここは前編・後編の二つに分けて、あまり編集せずにほぼノーカットで全文を載せようと思う。
この前編では福盛進也とはどんなミュージシャンなのかを探るためにこれまでミュージシャンとしての足跡を辿った。なぜECMサウンドに向かうようになったのか、どうやってECMとの契約を勝ち取ったのか。その過程に迫る。(インタビュー・編集・構成:柳樂光隆)
――日本を出て、海外に出たのは?
17歳、高校3年の夏ですね。
――それまでは高校では何を?
友達とバンドやってましたね、ドラムは15歳で初めました。僕はディープパープルとかが好きだったんで、そんなのを友達に言っても誰もやってくれないのですぐにやめたりしてましたけど。
――音楽系の高校とじゃないんですね?
そうです、普通の高校で、普通にバンドやってました。
――アメリカに行くきっかけは?
うちは両親がホームステイの受け入れをしたりしていた家だったので、うちの親は海外と交流を持たせたかったみたいで。留学を支援する団体のこともよく知っていて、兄が先にニュージーランドに留学していたので、それと同じ形でアメリカに行くことになったんです。その時から音楽を勉強したいって気持ちがあったから、最初はイギリスに行きたかったんですけど、ディープパープルとか好きだったんで。でも、その団体はイギリスと交流がないから、アメリカに行くことになって。でも、ブルースとか学べたらいいかなと思ってましたけど。
――ブッカーTワシントン高校ですよね。そこってアート系の高校ですよね。
ノラ・ジョーンズとか、ロイ・ハーグローヴとかがいたところですね。その留学支援の団体に「音楽の勉強もできたらいいな」って言ったら、たまたまその高校を選んでくれて。
――高校のころはどんなことをしていたんですか?
基本的に打楽器をやってました。ブラスバンドに入れられて、打楽器系のティンパニとか、あとは鍵盤打楽器とかをやってたので、その当時はあまりドラムをやってなかったですね。あと、ティンバレスとか、ああいうラテン系の音楽でよく使う楽器もやってましたね。テキサスはメキシコ人が多いのもあって、ラテン系の音楽は強いんですよ、マリアッチとかもよく聴かれてましたね。
――エリカ・バドゥもそこの卒業生ですよね。その高校の特徴は?
芸術高校なのですごく変わっているというか、一人一人の生徒が個性的な人ばっかりで、「この人もしかしたら天才なのかも」って感じの奇抜な人が多かったですね。全員がいろんなジャンルのオタクみたいな感じでもあって。
――USのパフォーミングアーツ系の高校に行くと音楽をやるために入っても周りに音楽以外のアートを志している人もたくさんいて、いろんなアートに触れることができるし、いろんなアートの人脈もできるって話を聞きますね。
そうですね。そこの高校は音楽のほかに芸術とシアターとダンスと4つがあって、その中の複数をやっている人もけっこういたし、その間での交流もあったし、そういうのが普通なんだと思います。
――そこから、日本に帰らずにテキサスのダラスに残ったんですね。
本格的にジャズを勉強したいと思い始めたので。僕が行っていたブルックヘブン・カレッジは2年制の短大みたいなところなんですけど、音楽専攻ができたんです。それまで音楽理論とかを勉強していなかったので、そこで理論の基礎を学んだりしましたね。
――そのあとテキサス大学アーリントンでジャズをやり始めたんですよね。
そこはビッグバンドが強いところで。テキサス自体がビッグバンドが盛んな場所なんですよ。
――例えば、ノーステキサス大学は世界的にビッグバンド有名ですよね。
そうです。そこを卒業した先生が教えてたりしていたので。毎日ビッグバンドをやったりしてて、そこで音楽的な基礎は磨かれて、初見であったりとか譜面のこととか作曲とかが身に付きましたね。
――じゃ、音楽理論とかはそのころに。
そうですね。バークリーに行く前ですね。
――ダラスって最近話題の場所じゃないですか。
スナーキーパピーとか。
――エリカ・バドゥのバックバンドのRC&ザ・グリッツとかもですね。近年、ダラスとかテキサスから面白い人が出てきてますけど、日本人からはわかりづらい場所です。どういうところなんですか?
ザ・南部って感じで、車がなければどこにも行けない笑 ダラスは確かアメリカの都市の中で大きい公共機関が最も少ない街らしいです笑 バスがあるくらい、すごい不便ですよ。
――チャーチ(教会)が多いとか聞きますね。
そうですね、チャーチは多いですね。白人が少ない印象がありました。、アフロアメリカンとメキシコ系のスパニッシュがけっこう多くて。だから、マイナーの人たちがマイナーって感じにはならない場所ですね。結束もできるし。
――ビッグバンドではどういうものをやってましたか。
カウント・ベイシーが多かったですね。ほとんどトラディショナルな感じですね。サド・ジョーンズ=メル・ルイスもちょこっと。当時は先生から(カウント・ベイシーのバンドの名ドラマー)ブッチ・マイルスを聴けとか、そういうことばっかり言われてましたね。
――その後、ボストンに移住したんですよね。
トラディショナルから離れて、フュージョンが好きになったので、そういうのをやってみたいなと言うか、そういう仕事をしたいと思うようになって。その頃はヴィニー・カリウタがすごい好きだったので、そういうのを求めてバークリー音楽院に行ったんですよ。その頃はパット・メセニー・グループとか、マイク・スターンとかギタリストをよく聴いてましたね。
――バークリーはパフォーマンスの学科ですか?
《プロミュージック》っていう自分で授業を自由に選択できる学科でしたね。理論の基礎とかは前の学校でやっていて既に身についていたので、作曲のクラスとか、演奏系とか、アンサンブルとか、ドラムの演奏に関する授業とか、そういうのを受けてました。
――特に印象に残っている授業はありましたか?
僕は《ECMアンサンブル》っていうのに入ってて。それはECMの曲ばっかりやるっていう授業で。デイブ・ホランド、キース・ジャレット、ヤン・ガルバレクとか、ECMじゃないけどジョン・ホーレンベックがやっているクラウディア・クインテットとか、そういうのをひたすらやるっていう感じで。先生はブルーノ・レイバーグっていう人で、スウェーデン出身のベーシストでした。あとは、フリーで演奏しながら、どういう風に周りの演奏を聴いて、どういう風に対話するかとか、そういうのを練習しましたね。ちなみにその他にも《パット・メセニー・グループ・アンサンブル》みたいのにも入ってたんで、ECMばっかりやってましたね笑
――ECM系の授業みたいなのがいくつかあったんですね。そういえば、バークリーはゲイリー・バートンが先生でしたもんね。
以前はゲイリーが副校長でしたからね。
――ルパートっぽいインプロをやるアンサンブルってことですよね。
そうです。その時やった曲で今でもやる曲があって、ケニー・ウィーラーの『Angel Song』っていうアルバムに入っている「UNTI」とか。オリジナルはドラムは入ってないんですけどね。ちなみにECMアンサンブルのグループは4人しかいなくて。ECMやりたい人がほとんどいなかったんですよ、ボストンには笑 サックスの人が来てすぐに「ヤン・ガルバレクが好きなんだよ」みたいなことを言ったら、他はECMマニアみたいな人が集まってたから、周りの会話に怖気づいて次から来なくなったり(笑
――バークリー内での少数派だったんですね笑 話を聞いていると、ECMサウンドって既にセオリーみたいなものになっているんですね。
スタイルとしては確立されてるということですよね。テキサスのアーリントンにいたころでもECMって言葉はよく聞いていたんですよ。ECMっていうのは「8ビート系の跳ねない縦ノリのフィール」のことだって教えられて、そういうスタイルもあるんだって思ったのが最初ですね。楽譜とかにも記号的に《ECM》って書いてあることがあって、そういう時に覚えましたね。
――つまりパレ・ダニエルソンとヨン・クリステンセンのリズムセクションのノリみたいなことですよね。
そうですそうです。ECM系でやってよみたいな感じで。
――つまりキース・ジャレットのヨーロピアンカルテット的なリズムって、一つのスタイルになっているってことなんですね。
そうですね。ちなみに僕が一番最初に好きになったのもキースのそれですね。『My Song』。バークリーに行ってからカントリーが好きになって、朝から晩まで「Country」を100回くらい聴いてましたね。寝てるときも流してたし。
――ECMにすごくはまったのはバークリーのころだったんですね。
ヴィニー・カリウタみたいになりたくて行ったんですけど、周りはテクニックがすごい人ばっかりだったし、自分がそれをやってもしょうがないなと思うようになって。その時にECMに出会いました。
ECMだと他にはエバーハルト・ウェーバーの『Silent Feet』が好きですね。「Seriously Deep」って曲が好きで、その曲ってイントロがあって、ピアノが入るんですけど、そのピアノの音にやられて、そこからECMすごい好きになりました。そこからキース・ジャレットの『My Song』聴いたりとかし始めて、その後はライナー・ブリューニンンハウス(ヤン・ガルバレク・グループなどで知られるピアニスト)。あの音は衝撃的でしたね。まさにリヴァーヴの効いたECMって感じのサウンドですよ。
――他に印象的な授業とかありますか?
作曲に関するもので、対位法を学ぶ《カウンターポイント》って授業は勉強になりましたね。バッハ的なことだったり、どういう風にメロディーを動かしていくかはすごく面白かったですね。あとはアレンジとか、コンポジションの授業では、和音の組み立て方とか、四声でやるときはこういうやり方で進め方の理論があるよみたいな、そういうのは興味深かったですね。
――対位法って今のジャズの中でもすごく重要ですよね。ちなみに演奏はどんなことをやってましたか?
ボストンにあるビッグバンドに入っていて、バークリーと全然関係ないんですけど、ビーンタウン・スウィング・オーケストラっていうんですけど、名前の通りスウィングばっかりやるビッグバンドです。歌手もいるので、カウント・ベイシーとフランク・シナトラの感じをずっと3時間やるみたいな仕事でしたね。その時はテキサスでやっていた初見で弾けたり、譜面に強かったりの部分がすごく活きましたね。あとはレストランでギタートリオでグラント・グリーンやったりしてましたよ。でも、途中からこれは自分がやりたいことと違うなって思い始めて、そう思ってから1か月後にはアメリカを引き上げて、日本に帰ってきたんですよ、もう「ヨーロッパに行こう」と、ECMをやりたいのに何でこんなことをしてるんだろうって。
――決断速い!ちなみにバークリーのころの同級生って誰とかですか?
実はあまりバークリー内で活動してなくて。どちらかと言うとニューイングランドコンサバトリーとか、他の学校の生徒と仲が良かったですね。マーク・ザレスキってサックス奏者とか、彼は(サニーサイドなどからリーダー作を発表している)グレン・ザレスキの兄弟なんですけど。
――たしかにバークリーよりはニューイングランドの方がECMと相性よさそうですよね。クラシック寄りというか。
レベルは高いですね。バークリーはいろんなレベルの人がいるし、バークリーは内輪っていうか、練習室に篭ったりとか、バークリーの学校内でセッションするのが多くて、僕には合わなかったんですよね。
それでバークリーを卒業して一年だけボストンに残って、日本に戻って一年半だけ活動して、ヨーロッパに行きましたね。大阪に戻って、資金を工面して、準備をして、ミュンヘンに移ったんです。
――なんでミュンヘンに移住したんですか?
ECMの本社があるから、それだけですよ笑
――つまりECMだけにターゲットを絞っての移住ってこと?
そうです。無謀というか。何も下調べもせずに、知り合いもいないまま行ってしまったので、すごい苦労しましたけど。
――僕、2年前にドイツに行ったんですけど、ベルリンでもそんな大きいジャズシーンがないですよね。ミュンヘンだと更に小さいわけですよね。
小さいですね。ミュージシャンはいるけど、あまりミュンヘン内で演奏することはないですね。ジャズクラブもウンターファールトっていうブルーノートみたいな大きいところがあって、そことローカルミュージシャンしか出ないような小さいジャズクラブの実質二つしかないんですよ。だからシーンがないというか。行ったはいいけど、そんなにECMみたいな演奏をする人もいないし。
――そもそもECMってドイツ人の録音が少ないですよね。
少ないですね。ミュンヘンもECMア―ティスト一人もいないんですよ。
――ほんとに何の事情も知らずに行ったんですね笑
行ったらレーベル・オーナーのマンフレート・アイヒャーに会えるかなって。でも、ウンターファールトでのECMのコンサートに行ったらマンフレートが来てて、何回かあいさつできて、「わー、やったー」って思って。もちろん音源を渡せるような状況ではないですけど。
――そこからどうやって活動始めたんですか?
最初はまずジャムセッションに行って、名前を売るしかないなって思って。あと、毎週ジャムセッションに通って知り合いを増やして仕事をもらったりして、
――超泥臭い叩き上げじゃないすか。
そうですよ。でも、ジャムセッションとかだとバップが多いから、バップは得意じゃないけど、やってました。そうするとバップの仕事が増えていって。そういう感じでやっているといろんな仕事が来るようになって、グルーヴ系とかフュージョン系の仕事が来るようになって。一時期そんなんばっかりやっていたから、ミュンヘンの人は僕のことをECMっぽい演奏ができるとは思ってなかったと思う。たぶんグルーヴ系のドラマーだと思われてました笑
――そこでヴィニー・カリウタ好きだった過去が活きましたね笑 そこから自分がやりたい音楽はどうやって形にしていったんですか?
フリー系のセッションがたまにあったんですよ。そこに行ったときに通じ合えた人もいて、そこからプライベートのセッションとかやり始めました。サックスのマテュー・ボルデナーヴも知り合ったんです。彼とはECMの話が合ったんですよね。
――彼はフランス人ですよね。
彼は大学がミュンヘンで、卒業後もずっとミュンヘンに住んでいたんです。
――マテューがいたのは大きいですね。
実は、最初、彼のことは上手くないと思っていたんですよ。バップのセッションで知り合ったんで、「彼はあまりジャズをやらないのかな」みたいに思ってたんですけど、インプロのセッションになったとたんにめちゃくちゃ上手くなって。音色もすごいきれいだし。スタンダードやるときもバップのアプローチじゃなくて、コード進行とか無視してやってるから、自分を貫いてたと思いますね。インプロのセッションがあったときに、自分の曲を持って行っていたら、マテューが気に入って、声をかけてくれて。他はどうしようって話になったときに、ピアノのウォルター・ラングの名前が上がったんです。
ウォルターとは一度だけ大阪で会ったことがあったんですよ。日本に戻っていた時期に大阪のオールウェイズにミュンヘンにいるミュージシャンがライブやるって知って。その頃、ミュンヘンに行こうかなって思っていたころだったので、だったら会っておこうかなって思って観に行ったら、お客さんが僕1人だけだったんですよ笑 8時に開演なんだけど、これ本当に始まるのかなって思っていたら、一応1人なのに始まって、ウォルターが本当に来てくれてありがとうみたいになって。さすがにやばいと思ったのか、お店の常連の人を呼んだみたいで、しばらく2人で聴いてて、しばらくしたらもう1人、友人のヤマザキタケルが僕のツイートを見て来て、結局その日はその3人だけだったんですよ。それもあって、演奏が終わってからウォルターと話す機会があって、「今度ミュンヘン行くから」みたいに伝えていたので、声をかけてみたんです。
それで最初に演奏したときにしっくり来たので、曲もいっぱい書き始めました。どちらかと言うと、僕以外の2人が「これはECMに送るべきだ」「録音しないと」とか積極的に言ってくれてたんで、「じゃ、やってみようかな」って感じで。ウォルターがレインボースタジオで録音したことがあったから、せっかくだからデモもレインボーで録っちゃおうみたいな感じでやりました。
――ウォルター・ラングってECMマニアですもんね。レインボースタジオでキース・ジャレットやパット・メセニーの曲をやってる『Sound Of A Rainbow』ってアルバムとか作ったりしてて。
そうなんですよ。それでレインボウスタジオでデモを録音したんですよ。それがのちにマンフレートに渡すことになる録音ですね。
➡後編に続く
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