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スミレはスミレらしく(春宵十話)

割引あり

前書き

数学はもっとも純粋な学問である、と言われる。
僕はド文系の人間で、数学は全く分からないのだが、数学者のものの見方はとても好きで、優れたエッセイに出会うことが多い。

なぜ勉強しなければいけないのか、という問いはあまりに愚かでまともに答える気はしない。

でも、学ぶ理由はある。結構熱い理由が。その熱が結構苦しくもあった。


本文

よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。

岡潔「春宵十話」

「春宵十話」は天才数学者、岡潔の随筆であり、冒頭はその引用である。
かつて、多くの数学者が挑んでは心と身体と人生を砕かれ続けてきた「多変数函数」についての問題を、彼はたった一人で解明してしまい、世界を震撼させた。
ある海外の数学者は、そんなことが出来るはずがない、20人くらいの数学者が「岡潔」という名前で束になって論文を書いてるに違いない、と本気で信じ込み、日本に来たら実在したのでフリーズしてしまった、という逸話までついている。

氏のような偉人ですら「数学をやって何になるのか」と聞かれるらしいが、たぶん彼以上に「文学をやって何になるのか」と言われる。
この回数だけは彼に勝てる気がする。
正直なところ、これについては上手く答えられないし、答える気もない。
人生で一回でも実のある勉強をした人間は、この質問をしないからだ。

今度からは「それは文学のあずかり知らないことだ。読んでいるのといないのとではおのずから違うというだけのことである」と答えることにしよう。

もちろん、僕は国語の教師なので、近代文学や古文漢文、批評などを楽しんでほしいし、リスペクトしてもらいたいと願っている。
アホみたいに幼稚な文章ではなく、知的な大人の文章を書けるようになってほしいと思っている。

自分の価値観の枠組みの中では、その方が美しい人生だと心から信じている。
しかし、では絶対に文学を学ばなければならないか、というとそうは思わない。

僕が願うのは、一度でいいから学問に対して心から感動することだ。
その原体験さえあれば、学問に憧憬と尊敬を抱かずにはいられないし、勉強そのものが嫌い、ということにはならない。
それさえしてくれれば、数学でも物理でも政治でも何でも構わない。
極端な話、数学が大好きで国語がてんでダメ、ということでも大いに結構。
知を愛する心さえあれば、いずれの分野にも広い教養が必要で、学んでみようと思うに違いないからだ。

どうせなら全て学んでほしいとも、どうせなら国語を好きになってほしいとも思っているが、それは本人が決定する事項である。

話は逸れたが、彼は頭を熱し続けることは望まず、冷やす期間が必要だとも述べている。
詰め込み続けられるならばオメデタイが、そんなことは到底、不可能なのである。
冷ましたその時に、大発見を得た経験が多かったようだ。また、彼は若い時分に数学へのめり込み過ぎるあまり、精神を病んだ経験も持っている。
その反省から得た考えだ。

僕は凡庸な人間なので、詰め込んだところで世界を震撼させることなど出来ないが、それでも今年は若くない頭に詰め込み過ぎた。とても楽しい反面、もはやオーバーヒートもいいところだった。

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