見出し画像

今さら「君の膵臓を食べたい」

前書き

これを書いたのは10年くらい前。生徒に勧められて「君の膵臓を食べたい」を読んでみた。まあどうせ下らないだろうと踏んでいたが、

「え、上手いなこの人!」

と驚かされたのである。国語を教えていると、近代文学や純文学に寄ってしまうが、やはり現代のエンタメ小説を読む必要もあるのだと実感させられた出来事であった。

本文

何という衝撃的なタイトル! いまこの本が売れているらしく、本屋で見て気になっていたところに、読書感想文を書いて来た生徒も多かった。

まだまだ自分の感性も若いのかもしれないと思い、一安心。先週、図書館で借りて読んでみたがなかなかに楽しめる本だった。

仕事柄、小説を読むと色々と余計なことを考えてしまうのだが、恋愛小説は純粋に楽しめるので、歳を考えろよ、と自分にツッコミを入れつつもしばしば読んでいる。

そういえば僕が高校生の頃も「世界の中心で、愛を叫ぶ」という小説が大ヒットしていた。映画化もされ、男子校だったので、女の子と観に行った者は勝ち組、男同士で行った者は負け組というシビアな時期であった。笑

ネタバレにならない程度に書く(※今さら)が、主人公の男の子は【目立たないクラスメイトくん】【秘密を知ってるクラスメイトくん】など、名前で呼ばれることがない。

一方、皆から好かれている女の子は桜良ちゃんという固有名詞で登場している。

言語学的な話になるが(結局「余計なこと」を考えている)、普通名詞というのは言語の網の目の中で一般化された存在であるので、その男の子はただの「クラスメイト」で自分にとっても周りにとっても大した存在価値はないということだ。

それに対し、固有名詞はその反対の性格を持つので、代替不能なかけがえのない存在ということになる。もちろん徐々に心を開き、名前を獲得するのだが。

人を固有名詞で扱うというのは、当たり前のことのように思われるが、人権的にとても大切なことなのだ。

自分の指導を振り返っても、「うちの男子は~」「B組は最近~」などと考えているときは、たいてい上手くいかないが、ここの名前を挙げてきちんと見ると、何とかなっていることが多い気がする。

ちなみに、大戦中のユダヤ人を描いた、V・E・フランクルの「夜と霧」の中では、ユダヤ人達が名前ではなく「番号」で呼ばれることが、暴力よりも迫害よりも残酷な行為とされている。

社会の中では、誰でも自分の「役割」を演じなくてはならない。二日酔いで絶望的な朝でも、8:30には「先生」として出席を取らなければならないし、前日にフラれて世界の終わりのような気持ちで登校しても、「B組の生徒」にならなくてはいけない。社会というのはそういう場所だ。

しかしその中で、単に「先生」と「生徒」というだけでなく、「エレカツ先生」と「~くん」という関係になれてくると、この上なく楽しい。何だかんだで、君たちのおかげで幸せに教師をやっています。

いいなと思ったら応援しよう!

エレカツ@国語教師
サポートも大変励みになります! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費・取材・教育に使わせていただきます!

この記事が参加している募集