映画「アリスとテレスのまぼろし工場」の感想
※思い切りネタバレを含むので、覚悟完了の上でよろしくおねがいします。
私はごく一時期、廃工場の近くに暮らしていたことがある。その工場は銅の精錬場で、かつては公害を起こしたり山を丸坊主にしたりと様々な問題を抱えつつも操業を続け、やがて鉱脈の枯渇によって製錬所としての役目を終えた。私がそこに移住した頃にはもう操業を終えてかなりの期間が経過していたけれど、その建物はまだ往時の姿を留めていた。
一度だけ、外から見られる範囲で見物に行ったことがある。構造物が錆びていたり、窓ガラスが割れていたりとまごうことなき廃墟ではあったものの、引込線の線路跡、レールが撤去されただけで残る鉄橋、山の斜面を覆うようにそびえ立つ高炉、それら全てが、街の記憶、人の記憶をそこにとどめているように見えた。
鉱山町において、採掘をやめる、工場を止めるというのは、町の命運を左右する。だがそれは時の流れにより、必然的に訪れる。鉱脈の枯渇によって、事故によって、採算の悪化によって。鉄道が止まり、学校が止まり、病院が止まるのがその合図だ。あるラインを超えた時、町は死ぬ。
町が死ぬというのは、人が死ぬのとはまた違う意味合いがある。町を構成していた人たちは散り散りになるとはいえどこかで生きて暮らしていて、その容れ物だけが失われ、二度と蘇ることはない。
多くの人は死にたくないと願うものなのだから、町だって死にたくないと願っていてもおかしくない。死が避けられないのなら、せめて今の、この幸せな姿を少しでも長くとどめておきたいというその想いが、奇跡を生み出したっていいはずだ。
本作は、そうして起きた奇跡に「巻き込まれた」人々のお話だ、と思った。ある瞬間にプリントスクリーンされた影たちの、閉ざされた幻影の中で薄れていくだけの存在。言うなれば「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」における「世界の終わり」に暮らす人々と「影」の物語。
うる星やつらの「ビューティフル・ドリーマー」に例える人もいたが、あの作品では主人公たちは脱出する側であったが、本作では主人公たちは自分たちが虚構の存在であることを自覚し、唯一の「現実の存在」を現実に送り返す側であるという対比がある。
さて、本作において「この見伏」は町ごと時が止まっているわけであるが、「あの見伏」には移ろう季節の中で時の止まった夫婦がいる。ここで私の中で情報が出揃った。
そこからの疾走感は本当に爽快だった。答えは見えた、気がする。きっとこの物語の到達点は「そこ」である。それは間違いない。根拠はないが確信はあった。
スクリーンの中では少年少女が彼らの未来に向けて疾走している。がんばれ、がんばれ、私はココロの中で声援を送っていた(残念ながら応援上映ではないので!)。
かくして彼らの試みは実を結ぶ。しかし彼らに未来はない。そこにあるのはいつまで経っても「いま」なのだ。
この物語で、未来を持つのは、たったひとり。そのひとりに未来を託し、彼らは永遠の「いま」を生きていく。(中島みゆきのEDテーマが刺さる!)
だがちょっと待って欲しい、私は「奇跡」の創造主に対して呼びかけたい。鉱山が閉じても、工場が止まっても、町が死ぬとは限らないのだ。鉱山と命運を共にした町もあるが、町を愛する人達によって手を変え品を変え、変化しつつ生き延びた町もある。変化は死ではない。むしろ変化できるものこそが生き延びていくのだ。
だからそんなに不安がることはない。あなたが思うよりずっと、あなたは人々に愛されている。変わることは不安かもしれないが、人々の愛に身を委ねても良いと思う。あなたが町の人々を愛してきたように。
それでもあなたの不安が、思いがこの「奇跡」を起こし、わたしたちにこの物語を届けてくれたこと、そのことには本当に感謝したい。
公式サイト:https://maboroshi.movie/
タイトル画像:https://maboroshi.movie/download/ より