『正欲』の読書感想文を書くと決めたんだ
はじめに
人生の中で経験することは全て、起こるべくして起こった"意味"のある出来事だ。
最近の私は特にそう強く感じている。
嬉しいことも、少しメンタルに響くような辛い出来事も、どれも自分にとって必要なタイミングで訪れているように思う。
これから新しく出会う人、今側にいる人も然りだ。
『ちょっとスピリチュアルっぽくなっちゃうんだけどね。』
と、この考えを笑いながら友人に語ったら、突然スピえるというあだ名で呼ばれた。(SNSに真顔で打つ爆笑ではなく、ちゃんと文字通り爆笑した。)
師走が物凄い勢いで目の前に近づいている。
月1のnote記事の更新を目標にしている私は、今回もそんなギリギリのタイミングで真っ白な画面と向き合い始めた。
この11月にもスピえるをスピえるたらしめる出来事があったので、まずはその話がしたい。
『正欲』が私を呼んだ
先月はこれまでに執筆したnoteの振り返りのような内容を投稿したのだが、その記事の中でこんなことを書いた。
実はこの箇所は、ある女性を想像しながら書いた、いわゆる『私信』というやつで。私が毎月このnoteを更新する度に、スキやコメントで必ず反応をしてくれる、大好きなライターさんへの密かなメッセージも込めていたのだ。
彼女は"本を購入する"という行為から好きだと語るほど無類の読書好きで、おすすめの本を紹介するPodcastも配信されている。気になる方はぜひこちらもチェックしてもらいたい。
少し話が逸れてしまったが、えなりさんは私からの公開ラブレターをすぐに受け取ってくれた。
(わたしがただえるこさんの感想聞きたいだけ)
なんて殺し文句なのだろうか。
このリクエストの"意味"が知りたい。
だから今月は絶対に『正欲』を読んでnoteに読書感想文を書くぞ、と心に誓った。
だがしかし、私はえなりさんとは反対に活字を読むことがあまり得意ではなく、恥ずかしながら1冊の本を読み切るのにかなり気合いが必要なタイプの人間だ。
外出ついでに本屋に寄ろうとぼんやり考えてはいたものの、タイミングを逃し続けて1週間以上が過ぎてしまったある日、もう1つのポストが私の目に飛び込んできた。
彼は大学時代に所属していたミュージカルサークルの先輩であり、いわゆる私にとって『推し』という存在だ。
学年が4つ上のため、現役時代の活動時期が被ることはなかったが、映像で拝見した歌い踊る御姿や、公演準備の時期にOBとして足を運んでもらったタイミングに少しお会いできただけでも伝わってくる素敵なお人柄や言葉選びを心からリスペクトしている。(とにかく尊い。)
多様性といえば私は数ヶ月前にこんな記事を書いたことがある。
えなりさんはこの記事にも流星の速さでスキを押してくださっていたので、自分が思ったよりも早くこのリクエストの"意味"にたどり着けてしまった気もした。でも、この気づきも含めて全てが私を動かした。
この世の見えざる何かが『正欲』を観ろ。『正欲』を読め。と私に語りかけている。そんな幻聴が聴こえてくる程に。
『正欲』の感想文を書く
と、心に誓った数日前の自分をぶん殴ってやりたい。
こんなにも書くのが難しいテーマがこの世にあるのかと、正直戸惑っている。
※ここからは作品のネタバレを含む為、これから映画を観たり、本を読んだりするつもりの方はそっとUターンしてもらいたい。
まずは秀さんのご尊顔を映画館のスクリーンで拝むべく、サークル時代の同期を誘って映画『正欲』を観に行った。
最初に1つだけ、かなり浅い感想を言わせて欲しい。
推しのビジュが良過ぎた。テレビ番組のコメンテーターとして登場した瞬間、間接的にガッキーと共演していることに興奮を抑えきれなかった私を、友人が静かに手で制止した。日本の映画館じゃなければ叫んでいるところだった。
…さて、映画『正欲』を観に行った最大の目的についてのコメントを無事に残せて大満足したので、本題に入ろうと思う。
秀さんの名前もしっかり刻まれていたエンドロールが流れ終え、映画館の明かりがついた瞬間、思わず私は周りの観客たちを見渡した。
『今、あなたはどんな気持ちですか?』
1人1人にそんなことを聞いてまわりたくなった。
私が映画を観終えて感じていることは、果たして"正しい"のだろうか?
怖くなって、答え合わせがしたくなった。
とてつもなく孤独を感じた。
もちろん観客全員に聞いて回ることなんて出来なかったが、その大きな不安をシェアさせてくれる友人が隣にいたのが救いだった。
『正欲』の物語の中では、他者に決して理解できない(と本人たちは自認している)欲求を持っている人物同士の"つながり"が描かれている。
私が何も飾らずに、最初に友人に話したのは、『どのくらいの人が、誰にも知られずに、"つながり"を持てずに死んでしまったのだろう?』という疑問だった。
今はSNSなどで、不特定多数の価値観に簡単に触れられる時代になった。そのお陰(せい)で全てを知ったような、色んなことが見えているような錯覚に陥ってしまう。
『正欲』では性の対象について描かれていたが、この物語を知った後でも『そういう人も世の中にはいるのか…』とまるで世界が広がった気になってしまっている自分がいる。
決して『理解できない』と表現はしたくないが、それと同時に『わかる』とも言えないのだ。そしてこの世には『わかる』と軽々しく伝えてはいけない人間が、誰にも『わかる』と心から言ってもらうことがないまま、地球への留学を辞めてしまっているのだとしたら、と想像するだけで苦しくなった。
きっと私が苦しくなるのも烏滸がましいのだろう。
結局は"多様性"を語ろうとしても、それは自分が認識している範囲の小さい枠に囚われた、上から目線で語るための"多様性"であり、それは本質的に求められている多様性ではないんだ。ということを痛いほど思い知らされた。
本質的に求められている多様性ってなんだ?(以下、永遠にイタチごっこのような思考が続く。)
作品の中でもそんな"多様性"という言葉が流行っている現代社会への皮肉がたくさん散りばめられていた。
そしてそんな皮肉が、多様性と向き合えない自分について書いたnoteの記事を、恥ずかしくてぶち消ししてしまいたくなるくらいに刺さった。
映画だけでは受け取りきれなかったメッセージを読み解くべく、友人と解散した後はすぐ有楽町駅前の本屋で小説を購入した。
やはり本を読んでいても、スクリーンから感じたものと同様に、『お前の考えは浅はかなんだよ。』と突きつけられている気持ちになった。
やはり書籍の方が、映画より情景が詳細に描かれている分、与えられたダメージが大きかったように感じる。(映像だとカメラワークや照明の演出などに思考の逃げ場があるから尚更。)
やはりどう足掻いても自分の小さな脳みその中では"正しい"と出会うことができない。この類の話題に向き合うことは痛みを伴うものだと再認識した。だから本を読み進めている間にもすでに、この作品について感想文を書こうと決めた数日前の自分をぶん殴りたいと何度も思った。
しかし、私はこの本の後書きの最後の最後の文章を読み終えて、やっと目の前に微かな光が見えたのだ。
この後書きを執筆された東畑さんは臨床心理士なのだが、そんな毎日のように正解のない人の心理というものに嫌というほど向き合い続ける人でさえ、こんな風にこの『正欲』という作品を解説している。
私が感じているこの恐怖は、そして孤独は、ごく自然なものなのだと許しを得た気がした。
そして私の頭には、もう一人の女性の顔が思い浮かぶ。
この作品をおすすめしてくれたえなりさんは、『何度も何度も話し合う』という、人と人とがつながる手段をとる相手として、私のこと選び、手を差し伸べてくれたのか、と。
『何度も何度も話し合いたいので、12月にお会いできることを楽しみにしています。』
最初は"多様性"という言葉だけに反応して、私にこの本をおすすめしてくれた"意味"を理解したつもりになっていたが、実はこんなメッセージが込められていたらいいなと、懲りずに大公開ラブレターを綴ってみる。
えなりさんのおすすめ、そして私の感想がきっかけで『正欲』という作品が"つながり"を求める誰かの元にも届いて欲しい、でもこんな弱っちい自分がバレてしまう文章を読まれるのは恥ずかしい、などと、私も補足や言い訳がこの後も長くなりそうなので、ここで諦める。
さいごに
一緒に映画を鑑賞してくれた友人がふとシェアしてくれた感想に、ハッとさせられたので、最後はそれについて触れておきたい。
『どうしても多様性を認められなかった、マジョリティと呼ばれる側の人間が1番孤独になった。その構成が凄く面白いよね。』
まさに映画の最後のシーンだ。
"多様性"が神格化されているこの時代を生きている以上、他者との違いを認められない人間にしかわからない苦しみもある。そういう人だってこの世の中が語っている多様性から漏れてはいけないのだ。
私はどんなに偽善者だと、上から語るなと罵られようが、そんなあなたが、孤独を感じない世の中になって欲しいと願ってやまない。
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