新しい季節に向かって。さつきにとっての「エラマ」とは
新しい季節になる前に
家の近くを散歩すると、ちらほらと梅や桜の花が咲いているのを目にする季節になりました。暖かくなってくると、入学式など新しい生活が始まる行事が増えてきますね。
でもその前に、何かが新しく移り変わるためには、旅立ちや別れなどがつきものだと思います。
先日、わたしも大学の卒業式が終わり、人生の中の一つの節目を迎えました。
卒業式を終えたわたしは何とも言えない寂寥感にどっぷりと浸ってしまいました。
実際に友人達と肩を並べて学ぶ事ができなくなって、もどかしい思いをすることも多くあった最後の二年間。久しぶりに懐かしい面々が揃ったことの喜びと、「ああ、今日で最後なのか。」と現実を見てしょんぼりする気持ちとを同時に感じてしまったからなのかもしれません。
それでも、卒業を惜しむほどの仲間たちと出会えたことは、様々な制限を超えて密度の濃い心のつながりが作られていたから。この事実はわたしの人生を豊かにさせるための一つの糧になったのだと思います。
小さな命の終わりを目の当たりにして
ところで、最近自分の身近で死を迎えることがありました。
それはわたしの家で飼われていた小鳥との別れ。
ペット、しかも小鳥と聞くと少し拍子抜けしてしまうかもしれません。
でもそれがただの小さな生き物の死だと簡単に済ませてしまうことはできなかった。わたしにとっては思いがけずインパクトの大きい体験でした。
この小鳥は我が家で約10年間生きましたが、腹部の腫瘍が原因で最期はわたしの手のひらの中で数時間苦しみ、旅立っていきました。
生きているものが死に向かっていく姿を目の当たりにする事は本当に不思議なものです。
その消えゆく命が例え手の平で包み込んでしまえるほどの大きさだとしても、それが与えるエネルギーは凄まじく、わたしはその力強さに圧倒され、それから何週間もその気持ちから抜け出せませんでした。
生命の終わりというものは、寂しさや儚さに対する感情だけではなく、時にその反対の感情を湧きあがらせます。それは生に対する欲求、上へ上へ行こうとする強い感情なのではないでしょうか。
以前の記事であいすかさんが綴っていたように、わたしたちは、死があるからこそ生きるということを感じられるのだと思います。
あの『沈黙の春』を書き、環境破壊の実態を世に先駆けて啓発したレイチェル・カーソンは、
という言葉を遺しています。
どんなに時代が進んでも、生命に関わることを目の当たりにしたとき、私たちは人の力をはるかに超える自然の力に驚き、自分もその循環の一部であるということを思い起こさせられるのだと思います。だから、わたしは小さな生き物の死に立ち会った時、負の感情ではなく、むしろ励まされるような、安心感にも似た前向きな感情を体験したのだと感じます。
わたしはこの1か月の間に、物事の始まりと終わり、生と死、出会いと別れのサイクルを見たような気がしました。
生きるということ、言葉を書くということ
前回の「よむエラマ」の編集会議の時、文章を書くということ、言葉を綴るということについて考える時間がありました。この時間に、わたしは毎回ライターズのみなさんの発言から刺激を受け、思考することそのものを学んでいます。
今回の対話の時間を通して、わたしが改めて確認したことは、文章を書くということは、目に見えない物事にこそ価値を見出し、その見えないものを形にする作業であるということです。
そして、言葉を綴る書き手には、その見えないものを、普段人に見せる事のないその人の隠れた一面や葛藤、時には怒りをもって表現していく役割があるのだということです。
私たちは文章を読んで共感し、時には意見を対立させます。しかし言葉を通した平和的な対話であれば、その空間は長い間バランスを保って続いていくでしょう。
特に、よむエラマの中では、SNS上でどんどん流れていく文章とは異なり、長期的に読まれていく、寿命の長い文章が載せられていく場であるのだと思います。
現在、世界的に人の生命が簡単に脅かされる状況が続いていますが、それに反して、より一層私たちは生に対する意識も強くなっていると感じます。
だからこそ、言葉を通して思考し、対話するための空間が必要とされているのではないでしょうか。こうして考えてみると、言葉とは生きることそのもの=エラマ(Elämä:命、人生、生き方)であるかのようです。
人生を生きる者としても文章を綴る書き手としても未熟者ですが、この一か月で学んだことが少しでもみなさんの心に届けば幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
Text by さつき(心の旅人さつき)