無責任になったら、イイ感じになった
※使用するには、副作用があります
自分わりと、気配りします。相手が何かの発表中に困ったときに、さっと必要書類を出せるレベルの気配りができます。
でもね、妻の言葉足らずな部分を補完して、2歩先を行く行動を取れるレベルの気配りを持ち合わせていないレベルかな。
気配りも裏を返せば、相手の目を気にするということ。
そんな私もかつて、メデューサに見つめられたかのごとく相手の目にガチガチに縛られた時期があった。
遡ること高校1年生の時。
多くの高校生は、新しい出会いに対して期待と不安でちょうど中和されたプラスマイナス0ぐらいの何とも表現し難い感情を胸に、学校へと足を向けていたことだろう。
しかし、私にとっては不安に苦痛が掛け算された地獄の日々になろうとは。
学校まで電車通学していたわけですが、家から駅、電車内、駅から高校までと当然多くの人の波状攻撃をかいくぐって目的地に到着しなければなりません。
そのような中で、相手とすれ違うにあたり、顔を凝視しないまでもチラ見ぐらいは少なくともするはず。
しかし、当時の私はそれができなかった。相手の目を見るのが怖くてチラ見すらできず、ずーっと下を向いて歩く大会に出たなら県大会3位ぐらいは余裕で取れたのではないだろうか。
なぜこうなってしまったかというと、高校受験の失敗が原因でした。
当時は今みたいにネットの合格発表なんてなくて、受験会場に合格発表を見に行くわけです。
そして、家族で見に行けばいいものを同じ中学からの受験者の大半と一緒に発表を見に行くということをやっちゃいました。
で、私の番号だけ見事にないわけです。
その時の空気って異様ですよ。受かった周りは喜びたいけど、1人仲間が落ちているから喜べないし、何て言葉を掛けてあげたらいいかわからないという戸惑いがモロに伝わってくるわけです。
一方私はというと、落ちたことの恥ずかしさと自分のせいで周りが素直に喜べないことに申し訳ないという感情がミックスされ、CPUの処理が追い付かずガジェットがフリーズするかのごとく、次の行動を取れない状況。
いやね、当時まさか落ちると思ってなかったから、リスクを想定して一緒にいかないでおこうという発想が微塵もなかったですし、誘われたら断る理由もとくになかったんですね。
人生=学校と思いがちな15歳の若者にとっては、人生オワタ感が心を支配すると共に、お守りというスピリチュアルなものに依存しない人生にしようという決意を新たにしたのでした。
その後、滑り止め高校に進学を余儀なくされた私の心が癒されることはなく、『自分は何てダメな奴なんだ』という始まり、『周りは自分をバカにしている』という変な思考を携えて学校に通うことになります。
そのような思考が、ずーっと下を向いて歩く大会で勝てるだけの力を育んでくれたのでしょう。
これまで明るい性格だったのに、ある出来事をきっかけにここまで人が変わってしまうとは、人の目を気にするということがいかに影響力が大きいことか。
で、こういう状態が約半年続いたくらいでしょうか・・・
『このままではいけない! 考えろ!』
私の内なる声がしびれを切らしてしゃしゃり出てきた。
このままいくと取り返しのつかないところまで行ってしまうというリミッターが外れないように、もう一人の自分が声を掛けてくれたんでしょう。
で、私が考えた方法とはズバリ『自分を過少評価して無責任になる』です。
『自分に自信が持てれば、相手に臆すことなく面することができる』とはよく言ったものです。
確かに、上記はある程度元気がある人に対しては間違いない。
しかし、どん底まで沈んだ気持ちになっている人にとっては自信自体をすぐに取り戻すことなんて酷ですわ。
そこで、私が取った行動が『自分を過少評価して無責任になる』ことだったのです。
相手が自分のことを見るということは、少なからず自分に何かしら魅力的なものがあるから。
じゃあ、自分に何の魅力もないとしたら?
そんな自分に周りは興味を示しませんし、仮に見たとしても反射的に見るだけで、記憶に残るような見方をしていません。つまり、見ていないの同じ。
これを自分に当てはめてみると、
「みんなが受かる試験で自分だけ落ちる頭の悪い奴だ ⇒ 自分は人生の負組である ⇒ もうどうにでもなれ・・・」
といった思考回路です。
早速、この思考方法をやってました。
すると、どうでしょう?
『世間の人には自分の高校受験失敗のことなんて知らないし、知ってたとしてもどうでもいいことだわな』と思えるようになったのです。
その結果、相手の目を少しずつですが見ることができるようにもなったのです。
無責任になることで肩の荷がスッカリと落ち、今までの気配りを忘れることなく、あらゆることに対して動じなくなるというイイ感じのバランスになったのです。
但し、この方法は諸刃の剣だということも覚えておかなくてはいけません。使い方を誤れば非常に危険なのも事実。
自分を過少評価して無責任になることは、全く身動きが取れない人が新たに一歩踏み出す上では確かに有効な手段です。
しかし、それが自分の中で完結する使い方である必要があります。
例えば、”もうどうにでもなれ”という思いを極端に他人に迷惑を掛ける形で使うと、それこそメディアを賑わす連続殺傷事件などを起こしてしまうような『無敵な人』と言われるようになってしまうのです。
あくまで自分を良い方向に変えていこうという気持ちの中で、何かの壁にぶち当たってどうにも身動きがとれずに、縮こまってしまっている場合に対して使うべきなのです。
ですから、状況を変えるためにまず気持ちを変えて、気持ちを変えることで行動を変えて、行動を変えることで周りに喜ばれるような『素敵な人』になるべきなのです。
人はいくらでも思考を張り巡らせることをできますが、他人からは動きに表れてないと残念ながら何も行動していないのと一緒です。
行動して示すのです。
by えくてと
ということで、私も悟りを開くべく、今日も自己対話を続けます。