裸のランチとフロイト
人間、バロウズへの興味
ほとんど小説の類を読まないが好きな小説がある。それが「裸のランチ」だ。内容はというと脈絡がなく、場面もモラルもどこかへ飛んで行くような荒唐無稽なものだ。しかし、内容が無いとは思わない。むしろ、この本を通して著者であるウィリアム・バロウズの内面に接近することができる。そこに意味を見出だせる。
なぜ著者に接近する必要があるかと言えば、彼は筋金入りのジャンキーだからだ。まあ、好奇心だ。薬物依存状態下で書かれる文章である事を知った上で読むと興味深い。
大体こういう文を書くときは読んだことのない人に伝わるようにあらすじとか作品の雰囲気を伝えるんだけど、難しい。先程も書いた通り場面が転々とする。まるで夢を見ている感覚。夢って場面が転々としますよね。
改めて言うがバロウズは薬物を打ちながら作品を書いていた。「宣誓書」と題された前書きには薬物のやり過ぎの為か「これらの記録を書いたというはっきりした記憶はない」とまで書かれている。しかし、これはリップサービスで誇張だったということを追加された文章で白状している。それでも、どういう状況で書き上げたかは何となく想像できそうだ。
バロウズはカットアップという手法を用いる事もある。それは既にある本にハサミを入れて繋げていくものだ。しかし、この作品はそうではないと思う。前書きの後半がとっ散らかるところがあるが、そこはカットアップだろう。だが、本文とのとっ散らかり方とは違いがある。この作品にあっては自動書記の方が近いように感じる。自動書記とは先入観を捨て何も考えずに書く事だ。薬漬け自動書記。実際そんな感じの世界観だ。
無意識と夢と連想法
ここでフロイトの話を割り込ませる。彼は「無意識」を発見した人だ。夢の内容は「意識」によって抑えられていた「無意識」の意向が反映されるのが彼の説だ。具体的には、意識では「こんな事を考えてはいけない」と自重するような考えを無意識はそういったコントロールが効かないので踏み入ってしまう。それが夢に出てきたりするのだけど、夢も検閲が入り直接的な表現をしないので結局何なのかは自覚できない。それをフロイトは分析する。「こんな事を考えてはいけない」という理性と、それを考えてしまう欲との葛藤が病状を形成する。「無意識」の管轄下で。そこで、フロイトは夢を材料にその人が精神的に抱える問題を紐解き、神経症患者を治療した。
また、連想法というものがあり、それは夢で見たことから何か連想できることはないかと聞いていく方法である。連想が連想を呼び数珠繋ぎになる。それは、言葉の意味的な繋がりだったり、音的な繋がりだったり、その人自身の経験によって繋がれるものもある。そうしていくと表面的にはよくわからない夢でも、夢を見た人の意図が理解できるようになっていく。彼の用語を使うと顕在夢(実際見た夢の内容)から潜在夢(隠された夢の意図)を探るという事になる。この辺は「夢判断」や「精神分析入門」に詳しい。
裸のランチの内容と展開
話はバロウズに戻る。内容を見ると薬物を連想する描写が度々ある。「ジャンキー」というバロウズの半生を書いた自伝的小説にもある表現が見られたりする。注射器の描写などがそれに当たる。「裸のランチ」を読む前に読んでおくといいかも知れない。
彼は完全に依存しており、薬物接種を代謝とまで表現している。作中の「公布される書類は消えるインクで(中略)間に合うはずのない締切期限に間に合わせようとした」というのも薬物が切れる事への焦燥を連想せずにはいられない。その他にも売人や警察など薬物中毒者の視点ならではの世界観が広がる。いや、広がるというよりは数珠繋ぎに展開する。
また、彼は同性愛的趣向もあり、その欲望が内容にも非常によく出てくる。男色、おかま、ホモなどなどの文字が踊る。有名なバンド名でもある「スティーリー・ダン」は原文で出てくる言葉らしいが、日本語では「ヨコハマ製鋼鉄チンコ」という名で訳される。微妙に表記揺れがあるが、まあ、ディルドだ。三号まであるらしい。メァリーという娘がジョニーという少年の尻を犯す描写で用いられたり、また、別の場面でもちょくちょく登場している。蛇足か。
やたらと登場人物として少年が出てくるのでおそらくバロウズの性的趣向なのだろうと解釈している。赤裸々な欲望が描写されている。また、ナントカ主義とか社会的主張を感じさせる場面もあり、渾然一体となっている。悪夢か。
無意識が書く文章
フロイトの考えと結びつけてみよう。一般的な脈絡のある物語は理性、つまり意識的な領域で組み立てられ紡がれるものだ。しかし、「裸のランチ」には脈絡という意味ではまとまりがあまり感じられない。それは薬物によって意識の状態がはっきりしないからだ。そこで「無意識」が存在感を出す。誇張であれど「はっきりした記憶がない」という表現も頷ける。
では、無意識が物語を書くとなるとどうなるだろうか。そう、夢だ。夢の転々とする描写こそ無意識的で「裸のランチ」の荒唐無稽さを演出する。夢が荒唐無稽であるように。また、それらは書いた本人の中にある無意識的思考に依拠している。だからこそ、バロウズの中にある薬物、性などの欲望が反映されたモラルの飛んだ世界を描いたのだ。
また、「裸のランチ」がカットアップではないと感じるという旨を先に書いたが、理由としては文章全体の世界観に繋がりを感じたからだ。それは文脈的な繋がりではなく、イデオロギー的繋がりだ。内容はとっ散らかっているが、バロウズという人間を通して導き出された文章である事に変わりはなく、それらにはある種のコンセプトを感じる。恐らくカットアップならそのような一体感は出てこない。
フロイトの連想法においては似た語感を持つ言葉が関連付けられ、数珠繫ぎの珠になったりする。なので原文が読めたら音韻的な要素含めて別の発見があったかもしれないが、原文を読む根性はない。
こうした視点から見れば凄くアーティストっぽい。内面的なものの表出。その為か、スティーリー・ダン、ソフト・マシーンのようにバンド名にバロウズからの言葉が用いられたり、デヴィッド・ボウイ、カート・コバーン、ジミー・ペイジ、ジョー・ストラマーなど錚々たる面々とのツーショットが見つかるわけだ。アーティストとして惹かれるものがあったのだろう。
最後に「裸のランチ」から示唆的な一文、
「言葉というものは全部で一個のまとまったものになるいくつかの構成単位に分かれているし、そう考えるべきものだ。しかし個々の単位は興味深い性の配列のように、前後左右どんな順序に結びつけることもできるものである。この本の内容は四方八方にこぼれ出す」
この文章とフロイトによる夢の解釈は共鳴しているように思うのは俺だけじゃない筈だ。