指導主事は、「言う」のではなく「伝える」。そして問う。
■教師の学びの姿も、子供たちの学びの相似形
「主体的・対話的で深い学びの授業をしてください」と、指導主事が教師の方々に一斉講義型で伝える研修は、ブラックジョークと言えるかもしれません。言ってることと、やっていることに矛盾があるからです。
この点に関して、「教師の学びの姿も、 子供たちの学びの相似形である」(中教審240号)と指摘され、子供に求める力を育成する授業を行うためには、教師自ら問いをもつ学びを展開することの重要性が示されています。
とはいえ、教師が行う授業は、違う立場の児童生徒対象に、教室という特別な空間で行われるものであり、ただ単に行うだけでは自ら問いをもつ場面が生まれにくいとも考えられます。
だからこそ、公開授業を意図的に行い、協議やリフレクションを行う中で問いを持ち、改善を図っていくことにより、自らの指導力を上げていくことができるのだと思います。
■指導主事による指導講評
公開授業の場には、指導主事が呼ばれることもあります。その際、指導講評を行うことが多いと思います。この時の内容を大きく分けると、その教科の学びとしてどうだったか、指導としてどうだったかになると思います。
教科の学びについては、指導主事の教科専門性を活かして、見方・考え方や育成する資質能力について、授業の中での児童生徒の様子を見取り、十分に育成できたか、今後の方向性はどうかなどを伝えることなどが考えられます。
指導としてどうだったかについては、例えば任意の児童生徒の学ぶ様子を写真や動画等を活用して取り上げ、発問や手立てなどが児童生徒の学びに有効だったかを伝えることなどが考えられます。
この際の私が考えるキーワードは、「伝える」ということです。もう少し言えば、「言う」だけに留まらないということです。
この違いについて、デューイの言葉を紹介します。
「言う」のは一方的で独りよがり、「伝える」は相手がいて、理解してもらうイメージです。
そして、「伝える」ために分かりやすく話すことは大切ですが、そこに留まってしまうと、教師が受動的になっていくことも考えられます。教員が主体的に学ぶことを望むなら、先のことを考えたアプローチも大切だと思います。つまり、教師自身が自ら学んでいくために指導主事が何をすればよいかということです。
この点に関して、千々布(2021)は次のように述べています。
教師は省察的実践家だと言われます。だからこそ、普段の授業の中で省察を繰り返していくことが成長への鍵になると思います。そこにたどり着くためには、指導主事も省察を促す投げかけを行っていくことが大切になるでしょう。
その視点として、「どうすればいいですか?」「こうすればいい」という技術的なやり取りでは、いかに上手く伝えたとしても教師は省察を自ら継続的に実践することにはならないと考えます。「あなたはどうしたい?」「あなたはどうありたい?」といった投げかけをすることが不可欠だろうと考えます。問い方を教師に伝えることで、教師が自ら問い続けられる省察的実践家になることを願うわけです。
この辺りについて、「何を、どのように問うか」という具体を、まずは自分で実践と内省を繰り返しながら見つけていきたいと思っています。
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