板挟みじゃ、どこにも行けないな
やらなきゃいけない事と、やりたい事。
どっちもこなしていくなんて、そんな器用にはできないから困ってしまうな。
やらなきゃいけない事とやりたい事の板挟み
生きていく以上、やらなきゃいけない事がある。
大抵は仕事だろうか。
あるいは学業かもしれない。
もっと小さい事で言えば、食事だってそう。
料理するかお店で食べるか、あるいはウーバーイーツでもいい。
方法は問わず、何らかの方法で食べ物を手に入れるのはやらなきゃいけない事。
仕事や学業にしたって、会社や学校にいる時間だけのことじゃない。
残業やら課題やらは自分で自由に時間を作ってこなしていく必要がある。
自分の人生の将来像なんて考え始めたら、業務時間外のスキルアップなどなど、「やらなきゃいけない事」なんて無数に生まれ得る。
一方で、やる必要はないのだけれどやりたい事だって、多かれ少なかれ存在する。
別に、「将来は薬剤師として働きたい」とか「いずれは結婚して子どもが欲しい」とか「海外旅行行きたい」とか、そんな将来的で規模の大きい話をしたいわけじゃない。
小説を読むことやゲームをすること、知恵の輪を解くことだなんてレベルの話でいい。
私にとっては、noteを書くことだって「やりたい事」のひとつ。
別にやらなくても生きてはいけること。
リラックスしたり、何かを楽しんだり、休息を取ったり、っていうこと自体は必要なんだけれど、細分化して特定の行動について見てみると、それは必ずしもやらなきゃいけない事ではない。というのが、やりたい事なんだろうか。
日常の中で「あれやりたいなあ」ってちょっと頭をよぎるもの、という認識でいいかも。
「やらなきゃいけない事」と「やりたい事」をちゃんと言語で定義しようと思ったらすごく難しいな。
ただ、とにもかくにも、私たちは「やらなきゃいけない事」をこなしていく中で、上手いこと「やりたい事」も消化しながら生きている、はず。
しかしながら、「やらなきゃいけない事」と「やりたい事」はどういうわけか、大抵の場合は別物な気がする。
もしやらなきゃいけない事で、なおかつそれをやりたいと思っていたら、行動に移すのにたぶんブレーキはかからない。
だけど、やらなきゃいけない事とやりたい事が脳内で喧嘩をしてしまうから、板挟みなんていう災害が起こってしまうものなのだ。
板挟みになると何も手につかなくなる。
大学の課題だか何だか、やらなきゃいけない事をやろうと思っていざPCを開いてみても、やりたい事が頭にこびりついて目の前に集中できない。
かといって、やりたい事を優先しても、やらなきゃいけない事への焦りと背徳感で手につかない。音楽を聴いていても楽しくないし、パズルを解き始めても課題が頭を占領してやめてしまう。
やらなきゃいけない事は手につかない、やりたい事は楽しくない。
そんな板挟みの中で何にも成し遂げることができないまま、脳内はショートして疲れてしまう。
やらなきゃいけない事とやりたい事がたくさんある結果、残るのはゼロの成果。
そんな、望まれない永久機関は、お手頃に完成してしまう。
そしてそれが自己肯定感に飛び火してしまえば、二次災害も甚だしい。
誰か私の脳内にバベルの塔建てた?
何の解決もできちゃいないけれど
板挟みに遭っていても、やりたい事を蔑ろにはしたくないな、という考えが私にはある。
たぶん、こういう板挟みに陥ったとき、よくある結末はやりたい事が満たされず、やらなきゃいけない事をこなすことだと思う。
だって、やらなきゃ"いけない"事なんだから。
ただし、その「やらなきゃいけない事」が満足できるレベルでこなされるものかは分からない。
発揮可能なパフォーマンスは、板挟みの中で雄大な時間を捨てた後に残されたわずかな資源で生み出せるだけのもの。
だけど、冷静に考えてみると、「やらなきゃいけない事」が何故やらなきゃ"いけない"かって、やりたい事をやるためだと思う。
やりたい事をやるためには生きていないといけないから、生きているだけ。
だったら、やりたい事ができないでやらなきゃいけない事をやり続けるだけの生活なんて意味が分からない。
それを長期的な視点で考えることが、人生の計画を立てること。
やらなきゃいけない事が本当に「やらなきゃいけない事」なのか。
やりたい事への繋がりを考えれば見極められるかもしれない。
なんて多くの人が一度は思っていそうな壮大で立派なことを考えたって、何の解決にもなっちゃいない。
板挟みでショートした頭ではなんにも考えられないで、ただただしんどい。