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知性は人間を変えてしまうのか。「アルジャーノンに花束を」
話の全体像は元からなんとなく知ってたんだけど、こういう方面から刺してくる話だと思わなかった。
簡単にストーリーを説明すると、主人公チャーリー・ゴードンは知的障害の青年だ。タイトルのアルジャーノンというのは、実は脳の手術を受けたネズミの名前である。
チャーリーはある日、人類初の実験台としてアルジャーノンと同じ脳の手術を受けた。その日を境に彼は日記をつけ始めるのだが、最初は間違いだらけで滅茶苦茶であった文章が日増しに整いだし、それはIQが急激なスピードで上昇していることを意味していた。やがて彼は学者が束になっても構わないほど超人的な知性を手に入れてしまった。ゴードン氏(元"チャーリー")は知的障害の頃と全く違う周囲からの視線や、知的障害の頃の追憶に戸惑い、怒り、悲しみ、時に喜びながら、研究者としての日々を過ごすことになる。
しかし手術は不完全であったことが証明されることになる。ネズミのアルジャーノンの様子は次第におかしくなり始め、ある朝死んでしまった。ゴードン氏もまた、IQが急激に下がり始め、元の知的障害に戻ってゆくのだった。彼は誰か"チャーリー"に戻る自分に代わって、死んだアルジャーノンのお墓に花を添えてやって欲しいと言い残すのだった。
…ざっとストーリーはこんな感じである。
私が胸を打たれたのは、ゴードン氏が知性を手に入れるにつれ、周囲の人間に忌み嫌われていく描写だった。知的障害のチャーリーだった頃は、パン屋で働いていたのだが、パン屋のみんなにバカにされていることすら気づかずみんなに構ってもらえていると勘違いし、ニコニコして過ごしていた。しかし知性を手に入れるにつれ、自分が周囲からどういう意味で可愛がられていたのかをはっきり思い知ることとなる。
そして、知的障害ゆえにできなかったパン屋の作業も楽にこなせるようになり、会話の内容も次第に高度になりすぎて同僚から「こちらを見下しているのではないか」と嫉妬や恐怖の目を向けられるようになってしまった。チャーリーの居場所だったパン屋を追われ、ゴードン氏は孤独にアパートに暮らすことになる。
また、彼の実の母親との関係の描写も胸に来るものがあった。母親は彼が小さい頃、彼の知的障害は治ると信じあらゆる病院に連れ回したのだが、努力の甲斐虚しく彼は知的障害のチャーリーのままだった。
母親はある日とうとうその事実に耐えきれなくなり、「妹がこの子と一緒の人生を送るのは可哀想だ」という理由でチャーリーを父親に押し付け、捨てたのだった。
脳の手術を終え、超人的な知性を手に入れたチャーリーは、捨てられた以来初めて母親に会いに行った。母親は最初は信じられない様子だったが、やがて
「こうなるってことはわかっていたよ。いつかはこうなるって。あたし、いつもそう言っていた。あたしはできる限りのことはしたの。お前は小さくて覚えていないだろうけど、あたしはやったのよ。みんなに言ってやったっけ、おまえはいつか大学に行って専門家になって、世間へ出て名をあげるだろうって。みんな笑ったけど、でもあたしはそう言ってやった。」
と言って目に涙を浮かべた。チャーリーは、生まれて初めて自分の存在が母親を喜ばせることができたと感じたのだった。
知性がなさすぎてもありすぎても、周りを不幸にしてしまう。両極端を経験したチャーリーゴードンはどちらがより幸福だったと感じただろうか。バカにされつつも、その事実にさえ気づかなかった知的障害者の時代だろうか。それとも生まれて初めて母親を笑顔にし、好きな女を対等な人間として抱けた研究者の頃だろうか。
知性に目が眩んでいる人間には、他者に対する愛情が欠けているというようなことをゴードン氏は言っていた。笑わせておけば友達なんてできるのだと。これに関して思ったことがある。
私は昔から母親に、「お前はいくら勉強ができたとしても性格が悪いから嫌われている」ということを再三言われてきた。チャーリーの育ちと正反対である。しかし結局は同じことである。上でも下でも、極端な人間というものは忌み嫌われる運命にある。
私はそう言われるたび、他人を見下しているつもりなんて微塵もないし、地道に勉強して良い成績を取っただけでなぜそこまで言われなければならないのか悔しくて悲しくて堪らなかった。そこまで言われてしまうということは自分の性格が本当に悪いのだろうかと思った。"勉強ができる"という事実に母親は嫉妬し、恐れ、意地悪を言われていたなんて思いもよらなかった。
知的水準が高くなるにつれ人間は、他者に対する愛情が欠如していくというのは偏見である。単に、周囲からの孤立が招く結果であると思う。
ゴードン氏も知性を手に入れるにつれ、チャーリーの頃と性格が変わってしまったと、周囲の人間は彼を忌み嫌うようになる。しかしそれは果たして本当のことだろうか。知性は人間の性格を変えてしまうのだろうか。あなたといると自分の頭の悪さを自覚し惨めになると泣いたアリスのように、周囲がまず彼に対して劣等感を抱き、彼を受け入れられなくなっただけだ。彼の変わったところは、性格ではなく、ただ他者から向けられる「劣等感」「嫉妬心」「畏怖」「嫌悪」などの感情を理解できるようになったという点のみだ。
チャーリー・ゴードンは知的障害であっても、高IQであっても、一貫して穢れのない人間性であったと思う。そういったIQのような数字で測れない人間性の崇高さは、育ち、知性に関わらず初めから神の采配で決められているのではないかと感じる。
この話を名作たらしめているのは、彼の知性の獲得と喪失の過程そのものではなく、それと向き合い生きる彼の人間性の純粋さ、ひたむきさなのではないだろうか。